3日目 荒田神学生

ローマ1・1-7

 

このローマ書の冒頭にある短い挨拶の中には、「召される」という言葉が3回も出てきます。この3回を見てみると、パウロは使徒、あなたがたはイエス・キリストのもの、そしてローマの人たちは聖なるものとして、というように召される形とその対象となる人はそれぞれ異なって書かれています。

 我々は「召される」という言葉を聞くと、召命、召し出し、特に司祭・修道者への召し出しというものを想像することが多いかと思います。しかし現状を見ればわかるように全ての人間がそういった道を選ぶわけではありません。多くの人は社会の中で必要な様々な職務に召されているわけです。ただし教会の中ではよく司祭・修道者の召し出しのために祈る機会はあるものの、社会の中で必要な仕事、例えば現在地方では深刻に人手が不足している産婦人科医などの召命のために祈る、ということはほとんどありません。それは何故でしょうか。色々な答えがあるかと思いますが、この我々の道は自分の努力がいかに絶大なものであっても、それだけでは成就しないものだからであると思います。

2006年の事だったと記憶していますが、日本にある4つの小神学院の神学生が長崎にて一堂に会し、スポーツ大会や交流会を行いました。当時の写真を見て数えたのですが、その時は実に58人もの神学生が集まりました。その中で、今も残っているのはここにいる我々3名のみであります。他の神学生は皆熱心で、頭も良く、残った我々よりも余程将来を期待されていた人たちでありました。勿論他の人の辞めるに至ったいきさつなどはわかりませんが、この道を続けるというのは、本人がどんなに望んでいても、例えば家族の中の問題など、一筋縄では行かない部分があります。また人間関係やその人のひととなり、あるいは良い指導者に出会えるか、など様々な要素が絡んで来るものです。このことは一般社会においても同じだと思いますが、特に多くの人間と関わる我々はこういった要素が強く表れると思います。これらのことは自分独りでいかに努力したとしても限界がありますが、その助けとして、我々は教会の信者、養成後援会の人々など、多くの人と関わる中で、応援を受けたり、祈りをもらったりするわけであります。そしてそれ程に求められているものでもあると思います。

ローマ書の冒頭部にあるこの3つの召された存在も、最終的には同じ目的、同じ神に向けたものであると言えるでしょう。教会においても、我々のような道を行く人でも、他の様々な職にある人でも、同じキリスト者として同じ「かしら」を持つ教会の同じからだであると思います。そんな中でも我々は、多くの人の助けを受けているからだとして召されています。このことを自覚し、深く感謝しながら、一週間後に迫った「かしら」であるキリストの誕生を準備して行きましょう。