6日目 傍島神学生

雅歌2:8-14

日本の未婚の若者たちの間には、クリスマスには恋人と一緒に時間を過ごしたいと考える人たちが多いようです。実際に、教会にも毎年、クリスマスの夜に、信者であるか信者でないかにかかわらず、普段は見かけないカップルたちが訪れます。仲むつまじい恋人たちの姿、初めて教会を訪れた恋人たちの姿は、ほほえましくも、ういういしくもあります。

  私たち修道者にとっては、かつての恋人という存在や、特別な感情を抱いた相手と共に過ごした時間というのは、ときとして良い思い出であり、ときとして迷いの種となり得ます。あの人は今どこで何をしているだろうか、とか、もし、あの人とつながりを持ちつづけていたとしたら、どうなっていただろうか、などといった思いに取りつかれた経験のある方もいらっしゃることでしょう。もし、どうしようもなく相手のことが思い出されて、頭から離れないときには、今、その相手が祈りを必要としているのだと考えて、手短に相手の幸いを願い、あとは神さまにまかせて、目の前の自分のやるべきことに気持ちを切り替えるという方法が有効かもしれません。そして、修道者、宣教者は神と人々を愛していく専門家ですから、かつて恋をした、恋にやぶれたという経験は、決して無駄にはならないでしょう。

先ほど読んだ今日の第一朗読、「雅歌」の中には、互いに心惹かれ合い、出会いを待ち焦がれる一組の男女の様子が描かれています。私たちは、主イエスの降誕を迎える前のこの数日間を、まさに私たちのところに来ようとする恋人を待っているかのような心持ちで、過ごしても良いかもしれません。

たとえば、大好きな人とどこかに出かける約束をして、駅で待ち合わせをする。相手を待たせるわけにはいかないと思い、早めに準備をして、自分が先にその場所に到着して、相手がまさに来ようとするのを待っている。プレゼントを用意してみた。相手とどこに行って、何を食べようか、どうすれば相手が喜んでくれるかを考えながら待っている。もしかしたら、相手は来ないのではないかという不安が、心に少しよぎることもある。でも、信じて待つ。たくさんの人々で溢れかえる駅の中で、愛しい相手の姿が遠くに見えてきて、足音が聞こえてくる。待っていた私たちの心は、平安に包まれ始める。たとえば、そのような心持ちです。

もちろん、その愛しい相手というのは、私たち修道者にとってはイエスさまです。イエスさまが私たちを抱きしめてくださいます。人と人との出会いには、先行きの不安定さが付きものですが、イエスさまと私たちとの関係は永遠に続くものであり、イエスさまが私たちを見捨てることはありません。修道者には、一般的な意味での恋人はいない場合が多いかもしれませんが、私たちは一人の特定の個人をではなく、より多くの人々を愛し、幸いへと導くためにこの道に呼ばれ、また、選んできています。

愛しい恋人イエスが、もうすぐ来るのを待つような心持ちで、そのイエスがどうすれば喜んでくださるかを考え、実践しながら、この降誕祭前の数日間を過ごして参りましょう。そして、クリスマスを共に過ごす多くのカップルや家族の平安、ひとりで過ごす人々の平安のためにも祈りましょう。