2010年ガブリエル 特集 治療は、命のパンがもたらす 「立願神学生 音流尊バルバロナ」

「私は命のパンである……しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。私は天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである……イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終りに日に復活させる。」(ヨハネ六章四八節、 五〇~五一節、五三~五四節)

「アッフハハハハワワワル」車椅子に乗っている人が大きい声を出した。視覚障害者が「私は無駄な人。死にたい!」と言った。その他は、「あなたはだれ? 神父様ですか? 神父だったら話さない!」もう一人、聴覚障害者は、「これは何ですか。」食べ物ですと答えましたが、その後もう一回聞かれた。

修練院で、三六五日「oraetlabora」(祈り、かつ働け)の生活を過ごした。それ以外に色々な事をすることになったが、もっとも感動したり、悲しくなったり、よく助けたり、訴えたりした奉仕は、ある家でのアポストラトゥス(使徒的奉仕活動)だった。その家は修練院の近くにあり、奉仕は毎週日曜日、特に身体に障害のある高齢者の家に伺った。訪問した時、私たちはなるべくすべての家に入ることを考えたが、しかし家に住んでいる人が恥ずかしいという気持ちがよく分かっていたので、全部には入らなかった。ただ老人や病気の人の家は、必ず訪問することにした。

この家の奉仕は一般的な訪問と話しではなくて、悩んでいることをはじめ、生活の苦しみや自分の障害を分かち合うことだった。その時この文書最初に書いたことを聞いたのだ。残念ながら、障害のゆえに教会に行くことや祈る事が出来なくなった。自分の中で疑い始めると神様へのたくさんの質問が生じ、その答えを見つけられなかったままだったので心が大変寂しかった。しかし、人生と神様の言葉と関係を彼らに説明しなければならないし、励まさなければならないし、持ってきたご聖体を拝領できるように宣教した。

老人と病気の人たちの家で何回も同じことをしているうちに、以前の固い心はだんだん柔らかくなっていき、優しくなった。それに病気であっても皆に会ったら元気な顔を見せているように感じた。命のパンだけを食べるだけではなくて、聞いた神様の御言葉は彼らを良く治療した。たまに、行かない時もあったけれども、家族のメンバーによると私たちを探してたずねていたそうである。だから忙しくても、日曜日ミサ後、必ず家の奉仕に行くことにした。

冒頭に書いたヨハネの福音書のように、皆の命が永遠に生きることも望んだ。特に老人と病気の人たちが受け取った御聖体によって神様の愛と恵みを与えられたように、その家の奉仕を通して良く助けた。それに、貧しくても、彼らの状態を考えても、老人と障害者でも、与えられた御聖体の力と恩恵によって絶望的な思考は徐々に追放されていった。そのため、自分自身が強くなって、力と希望が存続されて、彼らを訪問するたびに、元気で、ニコニコして、私たちの心も神様に感謝して祈りながら喜んだ。信仰によって命のパンが治療をもたらすことを信じた。彼らが受け入れた御聖体と聖霊に心を開けば開くほど成長していった。

家の奉仕の体験によって私は色々な事を実現した。先ず、「心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ三章一五節)。老人と病人たちが残念なことを思い出しても、神様の御言葉は聖霊によって彼らの心に満ちた。そして、受け取った御聖体は一人一人にキリストの力を注いだ。教会に行かなくても彼らの場合は、キリストの御言葉と命のパンを受け取るのに十分だった。そのため信仰によって障害者は治療された。短い期間でも主の力は、障害者にしっかり働いた。