2010ガブリエル 特集 ご聖体・不思議な秘跡 「立願神学生 トラン・ドゥク・ディェム」

ご聖体というのは、ミサの中で信者が拝領するパン(ウエハースのようなもの)です。ミサは最後の晩餐を模して行われるものですので、私たちはミサの中で主イエスと共に食事をしていることになり、そこには、深い意味が秘められていなす。この深い意味を知るには、内容が「相似形」(似たような内容)で構成されているキリスト教の聖典である旧約聖書と新約聖書を理解する必要があります。旧約聖書は天地創造(世界の始まり)から、ユダヤ人(イスラエルの民)と「神の契約」が記されたもの。新約聖書は、イエスの誕生から弟子たちの時代までのことが書かれた「神の契約」です。新約聖書を読むときには、旧約聖書に書かれた相似形の内容を思い起こすことによって、より深く理解することができます。

「キリストの聖体」の祭日のミサでは、第一朗読において「神の賜る良い土地/主を忘れることに対する警告」(申命記八章二~三節、一四~一六節)の、神から与えられたマナの話が読まれ、ご聖体はマナと同じように神からの恵みであることを明らかにしています。

聖体拝領は主が最後の晩餐の時、最初のミサ聖祭を捧げながら、聖体を制定し、御聖体が何であるかをはっきりと宣言された主の呼びかけへの応えです。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。(マタイ二六章二六~二八節)ここでは全てが御聖体に対する尊敬に満ちています。聖体は、キリスト教生活の泉です。聖体にあずかる事によって、キリスト信者として生きる動機と力を授かるのです。十字架上のキリストの犠牲(生け贄)が、信者にキリストの寛大な愛の力を注ぎ込みます。聖体祭儀は、私達の為に犠牲となられた神の子羊の聖体と御血で信者を養い、「その足跡を踏む」力を与えるのです。(一ペトロ二章二一節)

聖体はキリスト教生活全体の頂点でもあります。私たちは、祈り、働き、喜び、苦しみなど生活の全てを聖体に委ねます。このようなささやかな供え物がキリストの完全な犠牲(生け贄)と一つになり、神と親しい交わりにつながる完全な礼拝を通して余すところなく、聖別され、神に捧げ特集「聖体」55られるのです(ヨハネ六章五六~五七節参照)。聖トマス・アクイナスが言うように聖体は、「霊的生活の中心であり、全ての秘跡が目指す目的」です。

最後の晩餐の中でイエスはご聖体(パンと葡萄酒)がキリストの体と血であることを示されました。これはイエスが十字架にかけられる前の過越祭のことでした。信仰生活のなかで、時に十分に敬虔な心を持ちたいと思って心配し過ぎたり、告解(赦しの秘跡)に不安を抱いたりして、聖体拝領をためらうこともあるかもしれません。そのようなときは、赦しの秘跡を通して早めに心の平安を取り戻し、聖体拝領を通して神と親しい関係に立ち戻るのが良いと思います。もし、周りの人とのわだかまりがあるならば、寛大な心でその原因を解決し、自分に非がある時は、謙遜な心でゆるしを願うべきだと思います。神は、そういう心を喜び、すぐに赦し、素直な信仰を与えて下さるに違いありません。

もし、いろいろな理由で、聖体拝領をしないならば、それによって、もっと重大な結果が引き起こされるかも知れません。なにより、聖体拝領をしない状態が長く続くことで、自分自身を、聖体にふさわしくないものにしてしまっているのです。いろいろな理由で、告解を先延ばしにすれば、ますます信仰は曇ってしまうでしょう。できるならば、毎日でも聖体拝領することは、なんと幸せで、神に喜ばれることでしょうか。ひょっとすると、謙遜を理由に聖体拝領を控える方もいらっしゃるかも知れません。それは褒められるべき思いかも知れませんが、できるだけ、熱心な心で聖体をいただくことで、主は助けを送ってくださるでしょう。頻繁に聖体を拝領することで、聖体の価値が下がるわけでは決してありません。むしろ、当然のように、頻繁に聖体をいただくことで、多くの恵みをいただくことができるでしょう。愛と尊敬とを持って、秘跡にこもる救い主の御からだを受けることは、自分個人の慰めもさることながら、神の誉れと栄光に帰すことになります。わたしたちは、キリストに対する愛を奮い起こすたびに、神秘的なこの宴にあずかり、目に見えない糧を霊的に、生活の中に、受けるのです。イエスがお示しになったように、聖体は、来る日の復活の印なのですが、同時に今このとき、永遠の生命の源なのです。「永遠の命を有するだろう」とは言わず、「有している」と言われた通りです。聖体という食物を通して、すでにキリストの永遠の生命が人間の生命に浸透し流れ込んでいるのです。

私はミサに出ると、必ずご聖体をいただきますが。もし、頂かなかったなら、その日私は、本質的に何か大切なものが足りないということになります。ご聖体は私にとって欠くことの出来ない糧であり、神が私と共に生活しておられる「しるし」、秘跡なのです。そして「神は私と一体なのだ」と感じ、生活状態がどうであれ、私のこころの深奥で、動じることのない平和と幸せを実感するのです。