2010年ガブリエル 特集 かかれていない日記 「志願生 グエン・タンヒ」

「聖体」はとても大きなテーマですので、「聖体」に生かされる「命」、もうちょっと小さく、違った観点から考えさせてもらいたいと思います。


ところで、皆さんは最近、フジテレビで放送されている「天使の代理人」という堕胎の問題についてのテレビドラマを見ていますか?「命」についてとても感動的で、考えさせる映画だと思います。私も高校の時に、堕胎問題と似たような話をテーマにして弁論大会に挑ませてもらったことがあります。それの無修正版を皆さんに紹介したいと思います。
『かかれていない日記』
皆さん、人間とは何者だと思いますか?
人間というのは神様が創った地球上の何よりも美しく、素晴らしいものだと思いませんか。
人間が生まれる前という話をさせていただきます。
女性の卵子と男性の精子の出会いから始まり、およそ一億の精子の中からのひとつが卵子と出会って合体し、初めての新たな命が生まれます。その時に一つの命の誕生のために他の九千九百九十九万九千九百九十九の精子の命が犠牲にならければなりません。たった一つの命なのにそれほどの1億倍の命を捨てなければいけないということです。あまりにも多すぎるのではないでしょうか。言うまでもありませんが、その一つの命はどれほど大切であるか皆さんはよく承知のことでしょう。
ところで、ある日記を皆さんに紹介したいと思います。
今日、僕という小さな命がお母さんの胎内で新たに誕生しました。
その瞬間から一週間後、お母さんが僕の存在に気づいてくれたようで、お医者さんに見てもらいました。妊娠という検診の結果が出ました。何か事情があって、お母さんがうれしく思いながらも心配しているという複雑な気持ちを持っていることが僕には感じられました。親友だったり、親戚だったり、信頼のできるたくさんの人と僕のことをいろいろ相談していたようです。
三日後、お母さんはまたお医者さんの所に来ました。いつものようにただの妊娠検診だろうと僕は思いましたが、お母さんがなんだかとても緊張して心臓がどきどきと強く打ち始めました。
「お母さん、僕は元気だよ。何も心配する必要はないよ。」と僕がお母さんに伝えようとした時、何か様子がおかしいのです。突然、何かがお母さんのおなかの中に突っ込まれました。
「痛い……」と僕の手と足が挟まれ、一つひとつ切り離され、お母さんの胎内から摘出されました。
お母さんが妊娠中絶を受けたのです。
「どうして……お母さん?僕のことが嫌いなの?僕の存在はそんなにいやなの?」
「お母さん、ごめんね!僕の存在はお母さんにとって嫌なことだったんだね」
「僕がただ生まれて、お母さんの顔を一度だけでもみたかったのに、人工妊娠中絶のせいで、それが出来なくて……」
これは人工妊娠中絶で捨てられた小さな命の日記なのでした。
私はこの小さな命の立場に立ってみました。なんとも云えない辛さ。愛している母親に自分の存在を不要とされる辛さ、もし、生まれるなら他の生まれた子供のように活発で元気で生きようという希望を否定された辛さ。
宗教的な話になってしまうかもしれませんが、私は父親からこう教われてきました。「神様が人間を創造し、人間にすべての権利を与えてくれました。しかし、ただある二つの権利だけは、人間には渡さなかったのです。それは自分の「生」と「死」を決められる権利なのです。」
「生きている」すなわち「生まれる」私たちにはいつ、どこで、そしてどのような家庭に生まれてくるのかは、私たち自身が決して決めることはできません。
また「死」すなわち「死ぬこと」。私たちはいつ、どこで、そしてどのように死ぬのかは私たちが決めることはできません。
私たちが自分自身の「生」と「死」でさえ決めることができないのですから、他の命の「生」と「死」も決して決めることが許されないはずです。私にはなぜ人工妊娠中絶というものがこの世に存在するのかはとても理解できません。いくら科学技術が進歩したといっても、そのような技術を作るべきではありません。人工妊娠中絶はある意味で一八世紀、フランスで恐怖政治によって作られたギロチンというものと同じものではないかと思います。無罪の小さな命はなぜそのような罰を受け、死なないといけないのでしょうか?
その命を生むのが困難なこと、苦労なことであっても、その命が生まれてくることは親としての幸せではないのでしょうか。
いかがでしたか?
「天使の代理人」より深く、感動するものでないかもしれませんが、これを機に大切な「命」について皆さんの何かヒントにでも成れればと思います。私たちが神様から授けられた「命」、生まれる前から、生まれた後も、その「命」が生き続けるために神様に感謝し続け、そして「命」の糧の「聖体」を受けることが何より望ましいことでしょう。