2010年ガブリエル 特集 聖体訪問について 「日本管区長 市瀬英昭」

小学校低学年のころだったと思います。ある日の教会学校の三〇名くらいのクラスで、シスターから質問されました。「神さまがいらっしゃることはどうしてわかりますか? ヒデアキくン」。唐突な質問だと思いましたが、私は、少し考えてから、「ご聖体があるから!」と、これもいきなり答えました。シスターは嬉しそうな、でも、少し困ったような顔をされました。もっと一般的な例から話をはじめようと思われたのでしょう。私の出身教会は歴代、神言会の宣教師が担当する小教区でした。そして小さい頃から、神言会の司祭たちが非常に大事そうにミサを捧げているのを見ながら、ミサと聖体が信者にとってとても大切なものである、ということを無意識の内に学んできたように思います。感謝しています。

大神学生時代には、食堂での食事が終わると、毎回、自室や休憩室などに行く前に、途中にある地下聖堂に「立ち寄り」しばらく、聖体訪問することが習慣になっていました。もちろん、決まった日課でも規則でも義務でもなく、そこで何かの祈りの言葉を唱える訳でもないのですが、何か落ち着くような感じがあって、そういうことをしていました。聖体訪問という言い方は現在では、正式には「聖体の前での祈り」と変更されているようですが、意識的に何かの祈りや黙想をするのでなければ聖体の前にいることができない、ということはないと思います。何がなくてもいい。何もないけれど、イエスに会いに行く、ということ。確かに、どこででもイエスとは出会えます。しかし、聖櫃と聖体を前にする時間をやはり特別なときと感じるのは、幼い時に見ていた心を込めてミサを捧げる司祭たちの姿や彼らを心から尊敬していた両親のお陰だと思っています。

ところで、私たちは聖体を「訪問する」、会いに行く、と言いますが、実はそうではなくて、私たちを訪問し、会いに来てくださるのは、キリストご自身であることを神学の勉強をしながら確かめていくことができました。キリストは、ご自分が飾りとしてどこかに置かれるために聖体を残されたのではなく、私たちに「食べられるため」にそこに現存されるということが嬉しい感じでわかってきました。生前のイエスには普通の形ではもう会うことはできません。しかし、残してくださった「ことば」と「これは私です」と言われた「聖体」があります。これらによって、私たちは、歴史のイエスを見た人以上にイエスと出会うことができるかもしれません。しかし、イエスを「食べる」人は、今度は自分が喜んで人に「食べられる」ために生きていく使命を受けることになります。食べられ方はいろいろあります。家庭の父親や母親が子どもたちに食べられながら親として成長していくように、宣教者も必要とする人たちに食べられながら成長していきます。このような人間の本当のあり方と姿をキリストはご聖体によって示しておられます。そして、私たちはこれによって神がどのようなお方であるかをも知ります。あのシスターの質問に私は今も同じ言葉で答えると思います。「ご聖体があるから!」