2010年ガブリエル 特集 主の食卓に与る恵み 「立願神学生指導司祭 成井大介」

先日、ルワンダの首都、キガリの教会で主日のミサに与る機会があった。とても印象的で、心を動かされたので、その時のことについて書いてみたい。

外国でミサに与ると、同じカトリックのミサでも、動作や進行が少しずつ違ったりして、大変興味深い。このキガリでのミサでは、聖変化の時に参加者が拍手をしていた。司祭が「……わたしのからだである」と言って御聖体を捧げ持つと、参加者が皆拍手をするのである。彼らの習慣では、偉い人、貴い人を家に迎えるとき、拍手で迎えるそうで、まさに聖変化はそのようなときだということだった。一〇〇〇人ほどの人がミサに参加していたが、何というか、いわゆる「大喝采」という感じの拍手ではなく、「丁寧な」拍手という印象だった。聖変化を拍手で、というと、場違いだと感じられることと思うが、一〇〇〇人の人がそれぞれ思いを込めて、丁寧に拍手をしてイエスを迎えているその雰囲気は、大変厳かなものだった。
ルワンダは、人口の半分がカトリック信徒の、東アフリカにある小さな国だ。この国では、一九九四年にフツ族過激派によって、ツチ族やフツ族穏健派などの大虐殺が起こされた。三ヶ月の間に一〇〇万人を超える人が殺されたとも言われている。その時、教会には、多くの人が逃げてきた。ここなら殺されることはないだろうと皆思ったのだ。しかし実際には、教会は虐殺の場となった。逃げてきた人々ですし詰めになった聖堂で、機関銃掃射が行われた。まさに、聖堂は死屍累々という言葉がふさわしく、死体で埋め尽くされた。虐殺、虐待にカトリック教会、特に聖職者が荷担したという話もある。

隣の人が昼間堂々と山刀や棍棒を持って友人を殺しに行った。そのような惨劇を経験した二つの部族の人々が、一六年たった今、共にミサに与るというのはいったいどういうことなのだろうか。目の前で親を殺されたり、友人に殺されかかって、死んだふりをして九死に一生を得たような人々にとって、一六年前などまるで昨日のことのようなものだろう。和解などできるのだろうか。きっと、相当な時間がかかるのだろう。平和の挨拶も、実に複雑な挨拶だろう。ともかく、そうした二つの部族の人々が一緒にミサに参加しているということが、わたしには理解できなかった。

私たちは、主に招かれて、感謝の祭儀で一つの食卓を囲む。招く側の主は、誰彼かまわず招く。福音書に、「宴席が空いているから、通りに出て行って誰でも声をかけて連れてきなさい」という譬えが出てくるが、本当にどんな人でもお構いなしである。招かれる人は、様々な思いを持って、その祭儀に与る。ある人は、喜びにあふれて。ある人は、自分の弱さにうちひしがれて。ある人は、何でこの人も招かれているんだ、と同席の人に不満を抱きながら。

イエスは、パンを引きちぎって、「これはわたしのからだである」と、弟子たちに与えられた。実際に、イエスは十字架上で引き裂かれた。その引き裂かれたイエスを食べることによって、私たちはイエスにつながり、イエスを通して人々とつながる。まさに、御聖体は分裂からつながりへ、挫折から救いへと私たちを導く秘跡だ。イエスとはつながっていたいけど、人とはつながっていたくない、というのはできない。イエスと人々、両方とつながるか、両方ともつながらないか、どちらかしかない。わたしが出会ったルワンダの人々は、心の傷を抱えながら、良い方を選んだのだと思う。彼らに、ミサの恵みの力強さを改めて教えてもらった。