2010年ガブリエル 特集 I’m What I Eat 「志願生指導司祭 A・サガヤラジ」

我々は日々食事を行う。朝食、昼食、夕食、どれも我々の体力を維持するためには必要不可欠であり、それと同時に生きる力を与えてくれるものでもある。どのような栄養をとり、どのような食材を選ぶかによって我々の生活は変化するし、そのことは様々な国の文化を見れば一目瞭然ではないだろうか。しかし食べることとは我々が生きていくための共通的な根本部分であり、それはどの文化においても同じである。

つまり、食べることで生活は築かれるのだ。それならば食べることとは、我々の命そのものを繋ぐことである。それを更に言い換えるならば、I’mwhatIeatという表現があるように、食べるものこそが我々自身となるのである。我々が食べるものとは、すべてこの世界で生きているものである。植物であれ動物であれ、そのすべてが生きている。我々はそれら命を自らに取り込むことによって、はじめて生き長らえることができるのだ。様々な命によって我々が生かされているということに無自覚ならば、その恩恵に感謝することはできないだろう。

もうひとつ食事を通して言えることは、我々は常に誰かと共に食事を行っているということである。命を繋げる食事という行為を他者と共に行うこととは、他者と命を分け合い、共有するということである。たったひとつの命だけではない、皆の命を共に繋げ合い、そして共に生きていく姿が我々の食事、例えば同じテーブルを囲みながら夕食をとる風景、それらなどから見えるのではないだろうか。

さて、ここで聖体について考えたい。イエス様は最後の晩餐で、パンをとりご自身の体、そしてワインをご自身の血として弟子たちに分け与えた。つまり、イエス様はご自身の命を分け与えたのである。そして弟子たちは、その尊いイエス様の命と意思を、共に同じテーブルで受け取ったのであった。その後彼らはそれぞれが困難な道を歩んでいくこととなったが、それでも彼らの今日に残した功績とは非常に大きなものである。それはイエス様の命からなる、非常に尊い歴史のことでもあるのだ。

このように、聖体とはイエス様の体であり、我々は今日でもそれを頂いている。先述したように、食べるものこそが我々自身となるならば、我々がイエス様の体を頂くということは、我々自身がイエス様になるということである。また自分一人だけではない、皆とイエス様の体を共有することで、我々は共により深い関係性を築くことができるのだ。つまり我々は聖体を通して、イエス様に近づくことができ、皆とその命を共有することができるのである。

我々が生きていくという事実。それは別の命によって我々が生かされているという意識なしには語れない。そのようにして繋がっていく、繋げることができるこの命を、今日はじめて出会うかもしれない誰かのため、そして明日も続いていく自分自身の人生のためにも大切にしなければならない。そして我々は聖体を通して近づくことのできるイエス様のように、その尊い命をもって、他者のために祈り、奉仕していくことを忘れずに生きていくことが重要なのである。我々は食事を通して共に命を繋げ、聖体を通して共にイエス様の命を受け継ぐ存在なのである。