2010年ガブリエル 特集 聖体について 「トラピスト会 坂本 耕一」

今年の四月に、大学院に入学した厳律シトー会(トラピスト会)の会員です。なぜ、どうしてという問いは、誰からも、また、自分自身からも聞く問いであり、適切な回答は、従順に基づいてとしか申し上げようがありません。ともかく、卒業資格があればそれで結構ということなので、気楽でもあり、また、気が重くもなります。目的不足ということでしょう。

ところで、聖体について少し考える機会が与えられたので、私達の生活との関わりの中で聖体のことを考えてみたいと思います。イエズス様は何のためにこの世に来られたのか。私達と日々、聖体祭儀において、御自分の十字架の贖いを実現するためではなかったでしょうか。確かに歴史的な十字架の死と復活は歴史的な出来事ですが、十字架の贖いの記念は今日も続けられています。今、ここで。典礼憲章には次のように書かれています。「われわれの救い主は、渡されたその夜、最後の晩餐において、自分のからだと血による聖体の犠牲を制定した。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、自分の死と復活の記念を託するためであった。それは、いつくしみの秘跡、一致の印、愛のきずなであり、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の保証がわれわれに与えられる復活の祝宴である」(典礼憲章│四七)。一言で言えば、主は私達と、御自分の死と復活の記念を、聖体祭儀において日々、私達と記念し、御自分を私達に食物として与えて、共に生きるためにおいでになってと言えるのではないでしょうか。

主の生涯は、そのための準備であって、過越祭とその思い出、最後の晩餐の席での出来事と、その時の主の言葉、「これはあなた達のために渡される私のからだ、……多くの人のために流される私の血」、さらに、神の子羊、命のパンなどのたとえ、そして、十字架上でのむごたらしい死、これらはすべて、聖体祭儀と結ばれています。聖書から学び、御自分の歩むべき道を確認なさったイエズスにとって、他の道はあり得ませんでした。人々の罪の重さ、それに対する神の愛を人々の目にはっきりと示す十字架。ここに聖体の輝きが現れます。これこそ、贖いの体であり、血であると日々宣言される主の御言葉を、私達はどのように受け止めているでしょうか。今日、新たに十字架を重くする罪、その贖いとして渡される主のからだと流される御血。聖体祭儀の中で私達の心が痛まないなら、私達は傍観者として主の十字架を眺め、私達のための主の犠牲を無駄にしていることになるでしょう。また、出会いのためには準備が必要でしょうし、私達の元においでなった主との一致も必要でしょう。そこから新しい宣教の力と、信仰の力をいただくのでしょうから。日々、命をか特集「聖体」75けて聖体祭儀に参加し、主の十字架に与って、罪を許され、また、福音宣教に出かける力をいただきたいものです。主の思いが充満しており、私達の救いのために絶対に不可欠であり、神の最高の愛を目に見える形で啓示してくれる聖体祭儀に一日の最も大切な時間を当て、毎日、聖体祭儀を捧げることができる人々はなんと幸いな人々なのでしょうか。主の救いの業を毎日、真実に体験しているのですから。

日本の教会では、さまざまな理由のために、聖体祭儀に参加することが少しずつ難しくなってきています。主がどのように望まれるのか私達には分かりませんが、可能な限り、望ましいと思われる形での聖体祭儀の執行が続けられるようにと祈りたいと思います。