2010年ガブリエル 特集 ご聖体のありがたさ 「修練士 先山 諒」

ミサの中で頂くご聖体。皆さんは司祭から渡され、口の中に入れたとき何を感じているでしょうか。何も感じない人もいれば、特別な感情を抱く人など色々な人がいると思います。それは個人の感情なので、どんな事を実感していても素晴らしいことです。私は小学校高学年の時、初聖体を受け、それから毎週日曜日ご聖体を頂いていました。今思えばこの初聖体を受けたばかり時の感情は小学生ならではの考えで、お菓子的? 感覚でどんな味がするのだろうとか、毎週味が変わるのかなど聖体の意味を深く考えず、興味本位で頂いていたのを覚えています。ミサはあまり好きではありませんでしたが、その味のために毎週教会に行っていた自身をある意味凄いなと感じる今日この頃です。(笑) そんなお菓子的感覚から違う意味があるのではないかと自然に考えさせられた時期がありました。それは中学・高校時代に過ごしたルドヴィコ生活です。ルドヴィコでは毎日ミサがあり、ご聖体を頂く機会は小学生時代より明らかに多くました。もらう機会や、やる機会が増えるということは自然と疑問も増えていきます。このご聖体は何の意味があるのか、ご聖体が無くてもミサは成り立つのではないだろうかなど素朴な疑問が次々に頭の中をよぎりました。そんな時答えを導いてくれたのがルドヴィコで行われている講話の時間です。講話の中で神父様が「ご聖体とは神ご自身であり、我々は頂くことによって一段と心の中で共にいるというのが実感できる。」とおっしゃいました。普段何でも忘れる私が、この言葉を今でも鮮明に覚えているということは、私にとってかなり印象深い言葉だったのです。それからというもの、私のご聖体に対する感情は一気に変わりました。ルドヴィコ、大神学院、修練期、どの生活でも毎朝ミサが捧げられます。確かにとてつもなく眠むたいですが、ご聖体を口の中に入れるとその言葉を聞いてからは、お菓子的感覚ではなく、神が今日も共にいて下さっているという安心と、神のために一日頑張らなくてはという感情が生まれ、今でもその気持ちはほぼ毎日出てきます。しかし、時には我々は信者であるからご聖体をもらって当たり前だと思ってしまい、感謝を忘れてしまうことがあります。私もまだまだ甘くて弱い人間ですが、この神ご自身を頂き、共にいて下さると強く感じられる、この最大の奇跡とありがたさを毎日忘れないよう努力していかなければなりません。それと同時に私は毎朝ミサに参加することが出来る幸せ者です。それを一人で感じるのではなく、ミサに忙しくて参加できない人、参加したくても毎日のようにミサが無い人など沢山いらっしゃると思うので、同じ信者として全ての人のためにもお祈りしていかなければなりません。