2010年ガブリエル 巻頭言 人になる 品田 豊

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ十六章二十六節) 

-イエスは弟子達に「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われたが、「自分の命を失う」とは必ずしも肉体の「死」だけを意味しているのではないと思う。たとえ身体が健康で仕事も生活も順調に進んでいるとしても、何らかの事情によって人が人として生きられなくなってしまうときに、人は命を失っていると言えるのではないだろうか。

ところで私は、「人」という漢字が好きだ。小さい頃から「『二つの体が支え合う』ことによって『人』という文字が出来上がるのだ」という説明を何度も聞いてきた。聞くたびに感動し疑うことなど無かった。でも、ある日、とても悲しい出来事があり、自分の無力さに嫌気がさしふさぎこんでいたときがあった。落ち込んで何もする気が起こらず、ボッとしながら数日間を過ごしていた。ふとその時に「人」という文字が、二つの健康な体が互いに支え合っているのではなく、傾き倒れそうになり、自分だけでは立っていられないほど弱り切っている二つの体が助け合い、支え合うことによって、成り立っていることに気が付いた。どちらが支えているのか、支えられているのか分からない。確かなことは、互いの支えがなければ倒れてしまう二つの体が、ともに近づき、触れ合うことによって、支え合い、「人」という文字になることである。つまり人は、決して強い存在ではなく、互いに触れ合い、支え合うこと無しには、立つことも歩くことも、生きていくこともできないほどもろい存在なのだ。

考え方を変えてみると、自分の足だけで真っ直ぐに立ち、決して傾くことがなく、独力で我が道を歩んでいると思い込んでいる二人が一緒にいても、二つの体が突っ立っているだけで、いつまでたっても「人」にはなれないのである。互いを必要として交わることがないからだ。傾き倒れそうになっている二つの体が触れ合い、支え合うことが無ければ決して「人」という文字にならない。倒れそうになっている二人だからこそ「人」として支え合いながら、「人」として歩んで行くことができるのである。

冒頭で「たとえ身体が健康で仕事も生活も順調に進んでいても、何らかの事情によって人が人として生きられなくなってしまうときに、人は命を失っていると言えるのではないだろうか」と書いた。人が人として生きることができなくなってしまう時とは、人が他の人の支えがなくても生きていけると思い込んでしまう時、すなわち自分は強く、他の人に頼らなくても自分の力だけで生きているつもりになっている時だと私は思う。すなわち人は、傲慢な気持ちになっている時に命を失っているのである。誰でも自分の力だけで生きていけると思いこみ、またそう生きようとする時に、逆に命を失ってしまうのである。それにもかかわらず本人は、人生の全てが順風満帆に進んでいると思い込んでいるのでまさか自分が命を失っていることなど思ってもみない。

たとえ、この世界でどんなに高い地位を獲得しても、富を博しても、権力を握っても、また誰よりも強くなったとしても、一人だけで生きていける人は決して存在しない。誰も他の人と関わりなしに生きていけないのである。この当たり前の事実に気が付き、それを受け入れ、自らの弱さや無力さを自覚する時に、周りにいるやはり強くない人たちが必死になって私たちを支えてくれることに気が付くのである。そして究極的に神が、最愛の御独り子を通して「人」になるように私たちを呼ばれていることに気が付くのである。イエスは、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者」(フィリピ二章七節)になり、あげくの果ては、十字架を背負い幾度となく倒れてしまった。「人となられた神のみ言葉」であるイエスがこのように無力とも言えるほど弱くなりきったのは、私たち一人ひとりが「人」なれるように交わり、支えてくれるためである。しかもイエスの支え方は、前から引っ張るのでも、後ろから押すのでも、傍らから腕をつかむのでもない。イエスは、私たちの中に入り内側からみなぎる力となって支えてくれるのである。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(ヨハネ六五章十六節)

この言葉を具体的な形で実践できるようにイエスは、最後の晩餐の時に弟子たちに、どのようにイエスの血と肉を日ごとの糧としていただくことができるかを示された。イエスの言葉にしたがって私たちは、Beauty Machine 最後の晩餐を記念する感謝の祭儀を祝うたびに御聖体をとおしてキリストの体をいただくことができる。十字架を背負い何度も倒れ、弱く無力な人間になりきって死んでいったイエスは御聖体を通して私たちの中に入り、血となり肉となって私たちと結ばれ、命を与えてくれるのである。

もし「人」という漢字が示すとおり、倒れそうな二人が支え合うことにより「人」になるのなら、私たちは、御聖体を受けるたびに、私たちを愛するあまりに幾度も倒れ、命すら惜しまれなかったイエスの支えを感じ、「人」になれるのではないだろうか。