2010年ガブリエル 特集 聖体 「修練士 荒田 啓示」

小神学生の頃から、あるいは侍者会に参加していた期間も含めて毎日ミサに与ってきた。これまで「聖体を受ける」という事は、ミサの流れの一つに過ぎない程度の考えしか持っていなかったように思える。普通は毎週日曜日、そして教会の祝祭日にミサに与る。教会によっては毎日ミサが捧げられるわけではないので、神学院の生活はそういった意味で恵まれた環境にあるのだろう。だからなのか聖体を受ける度に満足や感謝といった感情は正直なところあまり湧き上がって来ない。聖体を受ける生活が当然の毎日に慣れすぎてしまったのかもしれない。

そんな中で子供たちの初聖体の様子を見ていると、初めて受ける聖体を子供ながらにわくわくという気持ちで楽しみに待つその姿には何か自分にも感じさせるものがあった。聖体の意義云々などは私の学の足りなさから大層に語る事はできないが、それだけに自身に感じさせるものには理屈抜きで浸透してくる。この子供達の姿にははっきりと満足という笑顔があった。

また祖父母が病気で教会に行けなくなったとき、司祭が自宅に病者の塗油と聖体を与えるために訪問してくださった事があった。祖父母を励まし、その手を取って与えられる聖体はまさしく命の糧であった。祖父母は深く感謝しながらそのパンを拝領していた。

大切な物ほど目には見えない、とよく言われる。もちろん聖体は大切と言えるが、それ以上に受ける者の気持ち、与える方の気持ちがより大切なのかもしれない。何においてもあって当たり前の物というのはいつしかその存在の有り難さが希薄になってしまう。だからこそ様々な機会で自分に感じさせるメッセージをしっかりと認識し、改めてそれは自分にとってどういう物であるのか考える事が大切だろう。