2010年ガブリエル 特集 御聖体──共にいます神 「立願神学生 ライチャーニ・ヤコブ」

クラシックが好きな人なら、フランクのPanisangelicus(天使の糧パン)やモーツァルトのAveverumcorpus(めでたし、まことの体よ)という曲を必ず知っているでしょう。この二つの歌は両方とも、カトリックの秘跡の一つであり、いや、その中心である御エウカリスティア聖体を題材にしたものです。実際、この秘跡には他にも様々な呼称があります。ギリシャ語のエウカリスティアを直訳すれば「感謝の捧げ物」と呼び、旧約聖書から表現を借りて隠喩的に「マンナ」と呼び、「魂の霊的な糧」と呼ぶことがあります。それらは、みな象徴であり、御聖体のある一面を表すに過ぎません。なぜなら、七つの秘跡の中でも御聖体は秘儀で、説明しようにもし切れないからです。

神学的には、色々な定義がなされますが、解かりにくいと言えばそれまでです。例えば、御聖体が祝われる感謝の頂点である聖変化では、パンの属性(色、味、形)が変わらないままでありながら、その本質は「パン」から「キリストの体」に変化する、というのは中世のスコラ神学の説明です。それは、自然界にはあり得ない現象であり、一般の論理学に反しているが故に、神様がはたらいておられる神秘であるに他なりません。いずれにせよ、御聖体とは何かという難しい定義が出来るだいぶ前から、教会は何よりも御聖体を大切にし、迫害の時代などには迫害者の手に渡らないように、隠れてミサを捧げていました。そのことから何が言えましょうか。御聖体は普通のパンとは異なるし、教会がそれを二千年にわたって行い続け、かつ守って来たのならば、現代の私たちもまた、御聖体を徒や疎かには出来ない、ということではありませんか。

冒頭で書いたような歌を聴くたびごとに、私はある疑問を感じています。それは、天使にも御聖体が必要であるのか、またやがて天の国が完成された時、待ち望む(ミサの言葉)」のではなく、ずっとキリストの傍におり、その交わりの中で生きるのです。他は何も必要ありません。「わたし〔ヨハネ〕は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。(中略)〔だが、〕都の中に神殿は見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである(黙示録二一章二・二二~二三節)」。すなわち、御聖体とは、イエス様から離れてこの人生において仮住まいしている間に、私たちが主のことを忘れないように、また「世の終わりまで共におられる(マタイ二八章二〇節)」ことを間近に感じられるように与えられたものなのです。何とありがたいことでしょう。そこまで考えそこでも御聖体が祝われるのか、という疑問なのです。適切な答えは見つかりませんが、少し推測してみましょう。聖書には、キリストは天使ではなく人間を憐み、贖ってくださったと書いてあります(ヘブライ二章十六節)。それに、ご自分を捧げたのは一度のみだった、という記述もあります(ヘブライ七章二七節)。そこから、毎日捧げられる御聖体の特徴についても示唆を受けます。私たちに救いをもたらすべく御自分を引き渡したキリストの生贄は一回限りであり、その効果は永遠に続きます。したがって、聖体祭儀はキリストの生贄の記念でもなければ、その繰り返しでもありません。ミサとは、十字架上の死と復活の現在化であり、それへの参与です。いや、その同じ捧げ物なのです。

永遠の宴は、地上で行われるミサ聖祭と違って、「私たちの希望、救い主イエス・キリストをてくださった神の慈しみは何と大きいことでしょう。物質的なものに頼りがちな人間に、漠然とした思い出や伝承だけではなく、まさに目に見えるモノを残してくださったとは。他にもキリストを象徴し、表している物があります、例えば復活のろうそく。しかしながら、それらはキリストを指し示しているだけであり、キリストが実際に現存しているのは御聖体以外に何もありません。そういう意味で、御聖体は終末に向かう側面を持っています。イエス・キリストの来臨を待っている間にも、主は不在ではなく、常に御聖体に現存しています。ですが、やがて来られた時には、キリスト御自身が神の栄光を帯びて目の前に現れるので、もはや御聖体の必要はなくなるでしょう。そこでは、御聖体という媒体なしに直接神の現前を味わうことが出来るからです。