2010年ガブリエル 特集 見えない神の現存を信じる恵み 「立願神学生 トゥ・ダン・フック」

最近、私は自動車学校に通い始めた。「危険を予測する能力を高めよう」を題にするそこでの学科教習では、ある表現が頻繁に出てくる。それは「見えないことは存在しないことではない」という言葉である。つまり、自動車の運転中、狭い交差点や前方に車両が駐車している場所、道路に障害物などといった見通しの悪い場所を通るとき、歩行者も車も見えにくいが、「それらが存在する」と思いながら慎重に運転するのが大切だと教えられた。言うまでもなく、自動車学校では、この「見えないことは存在しないことではない」という表現は、それ以上の意味では理解されていない。しかし、それを耳にした時、私は別の意味を読み取っていた。それは目に見えない神の存在、特にご聖体においてのキリストの存在に気づいたのである。確かに肉眼で見えないが、存在しないとは言えないということを再確認したのる。信仰教育において、教会の教えを学び、典礼における儀式の秘儀を理解するのはそれ程難しくないが、目に見えない存在に対する心の認識、神体験を育てるのがもっと重要だと思われる。神言修道会の神学生として、あちこちの日曜学校の仕事キリストの体と信じることはやはり人間の能力によるのではなく特別な神の恩恵によるのだと思っている。そのため、このようなときに、一生懸命に説明するよりも、むしろ、子供たちと共に神に信仰の恵みを願ったほうが効果的だと思い始めた。

日本は神々の国と呼ばれる。多くの日本人は神々は目に見えない存在であるが、遠くにおられるのではない。また、神が何かの抽象的な存在でもなく、森、川、山、巨大な岩などといった具体的なものに隠れておられると信じているようである。目に見えない神の存在は信じることが出来ても、一人の司祭の言葉によってパンがキリストの御体となることを信じるのはやはり信仰の恵みであろう。

わたしは神学生として、司祭職を目指しながら神学を学んでいる。秘跡、特に聖体の秘跡に関する教会の教えを深く理解しようとしているが、そのお手伝いに行って、そこで、教会のカテキズムを子供たちに教えているが、目に見えない神の現存、とくにご聖体におけるキリストの存在を理解させるのは決して容易ではないと感じている。日曜学校では、聖体の秘跡について話す場合、有効な条件のもとにミサ(聖体祭儀)で司祭の聖変化の言葉によってパンとぶどう酒がキリストの御からだと御血になること、また信仰生活の糧としてのご聖体を受ける必要があることを説明することは出来る。時には、初聖体式でのご聖体の受け入れ方を練習するために、まだ聖別されていないパンを使用するときもある。「このパンとミサで受けるパンはどう違うの?」という子供らしい質問を受けて、上述したようなご聖体に関する教会の教えを繰り返しながら説明するが、なかなか納得できないような顔を見るたびに、あらためて見えないキリストの現存、聖別されたパンをまことのれ以上に実際にご聖体の前で自分の信仰を強められる恵みを願ってやまない者である。