2010年ガブリエル 特集 聖体 自分を与え、招き、他人に導かれること 「立願神学生 ブー・カイン・トゥオン」

キリスト者にとって、聖体は神の現存であり、神の愛のしるしである。しかし、聖体の秘跡を成立されたのは人間の間にいるためだけでなく、働いている神を示している。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ一章一四節)

人間の世界に宿られて始まったのはイエスの受肉の神秘である。そして、十字架上での死は終了ではなく、神の働きが続けれるようになる。聖体に神の働きが続き、いつも人間と共におられる。私たちに与えてくださった聖体は崇拝するためでなく生かすためであると思う。聖体を生かすことは神の働きに関与することである。それは、自分を与え、招き、他人に導かれることである。

聖体を生かすことは与える精神を生かすことである。イエスは私たちのため自分の命を分け与えてくださった。十字架上だけでなく、イエスの人生はすべての人類のため分け与えるパンである。聖体は完全に与えるものである。聖体を通して神の力やいのちが与えられる。それは永遠のいのちである。イエスは自分が持っている永遠のいのちをすべての信じる者に与え、養い、人間の生活を聖なるものとして変えることになる。自分のことしか考えないわがまま個人主義社会の中で、割られるパンになり、自分が消失され、他人のために与えられることは大きな挑戦ではないかと感じている。しかし、聖体を頂いているキリストを信じる人々はキリストのように生きるよう招かれている。毎回、聖体を頂くことは私たちの糧のために捧げられたイエス・キリストの御体と御血を頂くことである。イエスの肉―イエスのいのちを受けるわたしたちは神によって生き、神の力によって兄弟のために自分も与えることが出来るようになる。

聖体を受けることはイエスとの個人の関係だけでなく、イエスと共によりよく正義と平和の社会を建設したい人との関係もある。聖体を受け、自分も他人のため「割れられるパン」になるように招かれる。聖体を受けることは、神との出会いと共に互いにも出会う場でもある。聖体を受ける人々はイエスのようにすべての人生を神に捧げるよう、また他人のため健康、才能、時間などを与えるよう招かれる。聖体を受けることによって、イエスの捧げものと結ばれ、私たちが愛のため犠牲にしたことを神に捧げることが出来るようになる。それは、共同体(家族、学校、会社……)がよりよくなるため、積極的な意見、行動をすることであり、周りの人が人間らしくなるために貢献することであるのかもしれない。それらのことをするのは自我をなさしなければならない。しかし、そうすれば聖体を受けることによって聖体のいのちを生かし、イエスと共に神の愛を出会う人々に分かち合い、伝えることも出来るであろう。