第1日 聖霊、心を照らす方

普段私たちはまだ理解してないことを理解するために、理解した知識を使用して考え、さまざまな象徴を連想し、論理的な要素を合理的に解釈することだと思います。毎日の朝の祈りの始まる時、聖霊に祈っているが正直にいうと私はあまり聖霊のことを知りません。では、聖書に書かれている聖霊の名称や象徴と教会や人々の聖霊の体験に基づき、聖霊を知ることができると思います。聖霊のことをもっと理解し、もっと愛するようになり、聖霊の導きに従うため、今年の聖霊降臨前のノヴェナは「聖霊の名」についてのテーマとし、一緒に祈りたいと思います。

聖霊はさまざまな名で呼ばれ、さまざまな象徴を表現されています。それぞれの名称や象徴は聖霊の実体のそれぞれの面を表わしています。それゆえ、この九日間、聖霊の名称や象徴を見、比較し、また総合的な結びによって聖霊のことを深めることが必要だと思います。第一日目に当たって、私の話すテーマは「光を照らす方である聖霊」ということです。

先ほど朗読された箇所(使徒言行録4:8-13)はペトロとヨハネがイエスの復活を証するため逮捕され、最高法院の議員の前に連れて行かれました。ペトロは無学な普通の人であるのに、恐れず大胆な態度で民の議員、また長老たち、つまり律法や聖書をよく知り、民の指導者たちに聖書を引用し素晴らしい説教をしました。その話を聞いた人たちは驚きました。なぜペトロはそのようなことが出来るのでしょうか。「ペトロは聖霊に満たされた」とルカは読者に説明してくれました。これはイエスの約束の成就です。

あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

聖霊は使徒たちに光を照らし、人間の理性で信仰を理解することを導かれました。それは「十字架につけられ、死んで、三日目に死者の中から復活させられたナザレのイエスは主である」と告白することです。聖霊の照らしでなければ「イエスは主である」と言えないのです。復活されたイエスに信仰を告白することと共にその真理を証しをすることは聖霊の導きです。使徒たちに光を照らした同じ聖霊も私たち一人一人にその光を照らしています。聖霊の光によって私たちは時のしるしを見、理解することができると確信しています。

おととい、5月13日ベトナム教会のハノイ教区に大きな変化がありました。それはJoseph Ngo Quang Kiet大司教が退任することでした。正しく言えば退任させられたかもしれません。2008年からJoseph大司教は正義と真理のためベトナム政府に訴えました。それは土地の問題や宗教の自由の問題について強く訴え語りました。司教は政府に「宗教の自由は願い出れば与える恵みというものではなくそれは権利です」と言いました。今までそのように言われたことがない政府は驚きました。その時から政府と教会間でれずに続いている緊張関係がありました。政府の目には鋭いとげのようになりましたので政府は司教を教区から追い出したかった。政府はさまざまな手段で影響して、結局、司教は自分の教区を離れなければなりません。このニュースを読んで、私は「神様、どうして?」と問いかけたいです。人間の判断や考えによると教会は完全に強健に負けたと思われます。しかし、聖霊の光によって信仰の目で見るとその出来事は何か意味があると思います。人間の理性で説明できない出来事や思ったよりぜんぜん違うことになった時こそ、神のみ旨を知り、従うために聖霊の光を照らされ、祈らなければならないと実感しています。日々の生活の中、順境時も逆境の時も、神のみ旨を判定することが出来るように聖霊の照らしを願いましょう。

聖霊よ、来てください。あなたの光を私たちに照らしてください。

ヴ・カイン・トゥオン