第2日 聖霊、貧しい人の父

カトリックの典礼には、続唱(sequentia)というものがあります。昔は、その数が非常に多かったけれども、現在4つしか使われていません。かといって、けっして中世の名残りに過ぎないのではなく、大きな祝日や祭日を彩る大切な祈りだと思っても良いでしょう。今回は、「Veni Sancte Spiritus」という聖霊降臨のために作られた続唱に目を向けながら、いわゆる五旬際あるいはペンテコステのために準備しようとしているわけです。

「貧しい人の父よ、来てください」。この続唱の第2節に頭にある言葉ですが、短くありながらも、とても深い意味を込めている節だと思います。「貧しさ」と言えば、12世紀の托鉢修道会運動や20世紀の開放神学といったものが思い浮かべられます。そのことからも、「貧しさ」また「貧しい人」とは、時代を問わず、教会においては長い伝統を持ち、いや、教会にとって大切な宝であることが分かります。例えば、古代教会の助祭であった聖ラウレンチオの伝説など皆さんはご存知でしょう。しかし、貧しさとは、ともすれば間違って理解されがちな概念でもあることを、今日ここで、考えてみたいと思います。

まず、どういう類の「貧しさ」があるでしょうか。一つひとつは定義できませんが、羅列してみますと、言うまでもなく金銭的な貧しさ・修道者の誓願としての貧しさ・福音の告げている「心の貧しさ」というものが考えられます。それらはみな、何かが欠如している状態、何かが最初からない、もしくはあったけれどもそれを失った状態を言っていますネ。ゆえに、否定的な面が強いと思います。それよりも、さらに高いレベルの貧しさがあります。

マイスター・エックハルトという中世のドイツのドミニコ会士がいましたが、彼の説教52番には、三つの貧しさについて説かれます、つまり「物を持たない」こと以外、「物を欲しない」ことや「物を知らない」という貧しさもあるのです。その延長線には、もっと広い意味で言うならば、慣れ切った生活とか今まで守って来た習慣とか自分が得意だと思っていたものを棄てる貧しさとも呼ぶべきものがあり、その方が単なる金銭的な貧しさや、少しあいまいな「心の貧しさ」より深いのです。なぜなら、貧しさを外面的にしか考えていない人は、下手をすると、自分が貧しいということがその人の富となり、あったはずの謙遜はその人の自慢となり、人への奉仕は当然褒められるべきことになってしまうからです。すなわち、誇りに思う貧しさ、自分の心を占領した貧しさはもはや貧しさでなくなり、財産ひいては偶像になり得るのです。エックハルトによると、私たちは貧しさですら棄てて貧しくなるべきなのです。

どうしてでしょうか。どうして貧しさがこんなに求められ、美化されているのでしょうか。答えは一つだけです。自分を神の働きへと開くためなのです。神は空いているところにしか来られず、財産や自分の徳-どんなに良いことであろうとも-に心が捕われている人間のうちには、神の働き様がありません。そういうふうに考えると、もはや持っていた物や考えを棄てなければならないような否定的な貧しさではなく、何かのために他のものを惜しみなく放下する、というような肯定的な貧しさが生まれるのではないでしょうか。しかも、その「何か」はただ「別のより高い物」では足りず、「神」そのものでなければいけません。

「主なる聖霊さま、私たちの心を束縛しているあらゆる物から解放し、裸のままで神様の前に立たせてください。私たちに貧しくあることを教えて、すべてのモノから自由にしてください。あなたしかご存知でない神の高さ・広さ・長さと深さを味わわせ、その計り知れない豊かさから汲ませてください。アーメン」

ヤコブ・ライチャーニ