2014年度ガブリエル91号「家族は祈りと活動のエネルギー源」ヴィアトール修道会 助祭 バティオノ・ウィリアム・セルジュ

家族は祈りと活動のエネルギー源

ヴィアトール修道会 助祭 バティオノ・ウィリアム・セルジュ

カトリック教会では、夫婦を最小単位とし、基本的に夫婦と子どもという構成で「家族」を捉えている。しかし、私は子どもの頃、祖母の家で育ち、両親は別の家で暮らしていた。これは、なにか特別な事情があったわけではない。私の母国、ブルキナファソでは子どもは両親と共に暮らさない習慣があったからだ。しかも、私は小神学校に通ったので、中学生で家族から離れて暮らした。大学では、家族から350km離れた街で暮らした。だから、私には「共に暮らす家族」の思い出があまりない。では、私はとても孤独だったのだろうか?そんなことはない。母は私を厳しく、そして優しく愛してくれた。日本とブルキナファソはとても遠いので、母にはめったに会えないし、電話やインターネットでの会話も頻繁にはできない。しかし、母と私は親子の愛情でしっかりと結ばれ、互いに心配し互いに励まし合いながら、今日に至っている。一緒に暮らしていることだけが「家族」の証明にはならないということだろう。

私は、大人になってからヴィアトール修道会の修道者になった。そして、縁があって、今、神言会の神学院でともに生活をしている。修道会は大きな家庭であり、修道者は互いに家族であるという。血縁によって結ばれていなくても、私たちは家族なのだ。では、何によって私たちは家族なのだろうか。

100年前に林竹次郎という画家が描いた「朝の祈り」という絵がある。ある家庭の朝の祈りの風景だ。画家の家族をモデルにしたらしい。家の中はとても簡素で、沈黙が流れている。大人も子どもも静かに神に祈って神との時間を過ごしている。これが修道会の共同体、つまり修道会の家族の基本の姿なのではないだろうか。年齢に関係なく、信仰の絆によって結ばれた家族。それが修道会の家族なのだと思う。

キリスト者は信仰を祈りだけでなく、活動において実践することも求められている。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)とあるとおりだ。多くの修道会では、貧しい人や弱い人のための活動を行っている。家庭(共同体)での祈りによって力を得て、それぞれの場所へ派遣されていく。これは、血縁による家族でも信仰による家族(修道会)でも同じことだろう。この絵の中の母親の膝の上で祈っている小さな子どもは、大人になってから医師になり、日本のハンセン病医療に力を尽くしたという。家族とともに家庭で祈ることが、活動のエネルギー源になるのだ。

イエス様は「だれでも、わたしの天の父のみ心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイ12・50)と言われた。私は自分の家族は持たないが、神の兄弟たち(修道者)をたくさん得て、大きな家族の中にいる。このような喜びを与えて下さった神に感謝しなければと思う。

ただ、時々、国の母のことを思い出す。母は、長く会わない間にずいぶん年を取ってしまった。イエス様は十字架の上で、母であるマリア様のことを弟子に頼んだ。自分の両親を敬い、愛することも聖書は教えている。日本の若者たちは日本国内に両親がいるのに、あまり連絡を取らないという。若者たちには、両親に対して「お元気ですか?」という挨拶をもっとしてくれたらいいのになあといつも思っている。