2014年度ガブリエル91号「神の子供たち」司祭 品田 豊

神の子供たち

司祭 品田 豊

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタイ223739

キリストの福音を宣教することは、全世界のすべての人が、神の子どもであり、神を父親と仰ぐ家族であることを告げ知らせることです。その家族の中では、誰もがかけがえのない存在として神から愛されているのです。

しかしながら、神がどれほど一人ひとりを愛しているか知らない人、キリストを知らない人の数は年々増え続け、その数は第2バチカン公会議が終わったころの二倍近くになっているとのことです。

何故、こんなにも急激にキリストを知らない人が増えていくのでしょうか。この「問いかけ」への答えは、たくさんあると思います。その答えを見いだすためのヒントが冒頭の二つの重要な掟に隠されていると思います。イエスは、律法全体と預言者、つまり聖書全体は、「神と隣人への愛」が土台となっていることを示されました。どんな立派に見える建物でも土台がしっかりしていなければすぐに倒れてしまいます。同様に、たとえ山を動かすほどの信仰を持っているとしても愛という土台がなければ、それは見せかけだけの信仰になってしまいます。はたして私達の信仰は愛という固い土台の上に立脚しているでしょうか。

「愛」には長さも重さもありませんから、物差しや計量器で計ることはできません。その上、目に見えませんから「人がどの程度、愛しているか」も決して見ることもできません。しかし、愛の深さは「愛する者のためにどれだけの犠牲や痛みを受け入れることができるか」によって見極めることができるのではないでしょうか。イエスが「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われたのも、人の命に勝るほどの大きな犠牲は無いからです。

キリスト者が誇りと喜びとすることは、イエスが弱く欠点だらけの私達一人ひとりを友として選び、各々の名前を呼び、共に歩んでくださることです。それだけではなく、イエスは、自分の友が例外なく神から愛されていることを伝えるために十字架上での苦しみと死を受け入れたのです。十字架にかけられたイエスの姿は、「独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3・16)神の無限の愛の究極のしるしなのです。イエスが命を賭してまで私達を愛しているのは、私達の生き方、生活、日頃の言動などが神の目にかなったからではありません。私達が努力したから、そして教会の教えに忠実に生きているから愛してくれるのでもありません。イエスは私達のことが好きでたまらないから愛さずに入られないのです。私達の弱さも欠点も汚れた心も全てを知っていながら、何の条件をつけることなくあるがままの私たちを受け入れ包み込んでくださるのです。イエスの私達に向けられた深い愛を思うとき、私達自身の存在の尊さ感じます。私達の中にはイエスが愛してやまない尊い命が宿っているからです。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とは、神のために「何をするか」、「何ができるか」ということより、神によって無条件に受け入れられ、愛されている私達自身の命をどんな苦しい現実においてもいとおしみ大切にすることではないでしょうか。神が何よりも大切にされている私達の命を粗末にしながら神を愛しているなどと言えません。神から愛されている自分自身を愛することができたとき、初めて「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を実践に移すことできるのだと思います。神とイエスに愛される喜びは、「隣人への愛」を実践するための強烈な原動力となるのです。

キリストを知らない人が急激に増えているということは、イエスによって愛されている喜びを体験したことがない人の数が増えているということです。しかし一体どれだけのキリスト者が、神がどれほど私たち一人ひとりを大切にしているかを知っているでしょうか。また、神によって愛されている喜びを感じているのでしょうか。私達が神の愛によって生かされていることに気がつき、喜びに満たされる時、キリストをまだ知らない人も私達の輝きを通して神の愛の輝きに触れることができるのです。