2014年度ガブリエル91号「家族:「与える』と『もらう』場」終生誓願宣立神学生 ファノ・ジャマン

終生誓願宣立神学生 ファノ・ジャマン

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家族:「与える」と「もらう」場

終生誓願宣立神学生 ファノ・ジャマン

1.「与える」と「もらう」について

私達の人生の中で「与える」または「もらう」ということは、頻繁に行われます。それは様々な分野で、様々な仕方で行われます。そして、与えるものともらうものも様々なのです。例えば、具体的な「もの」であれば、食べ物、飲み物、お金などがあります。そして、時間、言葉、アイデアなどというような抽象的ものもあります。誕生日の時にプレゼントをあげる・もらう、他の人と一緒に過ごす時間を与える・もらう、困っている人を助ける為に励ましの言葉やアイデアや行動などを与える、もらうなどというような仕方で私達の人生の中でよくあるでしょう。

一つの行動の中でも自分が与える側だと同時に受ける側でもあるということもあります。それは自分が何かを自分のために与えるということだけではなくて、他の人に与える時に自分が受ける側となるということもあります。私は、東北でボランティア活動をしていた時に、分かち合いの中でよくボランテイアさんが言っているのは「ここに来て何か被災者の為にしようと思っていたが、逆にその活動を通して、様々な人との出会いを通して与えることよりも、もらうことの方が多いと感じている」ということでした。つまり、私達は他の人に何かを与えようとしている時に、その出来事からもらうこともあるということなのです。

よく考えて見ると、私達の人生の中のあらゆる出来事は「与える」と「もらう」という行動から出来上がっているのはないかと思います。全ては「与える」と「もらう」との関係で成り立っているのです。例えば、神と人間との関係、人間同士の関係、人間と環境との関係、先生と学生との関係、夫婦の関係、両親と子供との関係などは全て「与える」と「もらう」との関係なのです。そして、その関係の質においても悪かったり良かったりすることも、それはどのような動機で与えるのか、どのように受けるのかによるのではないかと思います。なので、あらゆる人生の中で起こる出来事の全てが「与えること」と「受けること」で把握することが出来ると言えるのです。与えること、または、受けることのない人生はありえないのです。

2.与えられた存在である私達

突然ですが、皆さんに質問したいことがあります。いつ私達は初めて自分の存在に気が付いたのですか?つまり、自分が生きていることに初めて気が付いたのはいつでしたか?・・・答えは様々あると思いますが、しかし、確かなことは少なくとも二つあります。一つは、私達が自分の存在に気が付いた時に、既にこの世に存在しているということです。気が付いたら、既に生きています。気がついたらもう家族の中にいるなどです。私達はもうこの世に生きているので、そのまま生きて来ています。生きている中で私達は自分の存在の意味を求めているのです。

そして、もう一つは、私達が自分の存在に初めて気が付く前に、実は他の人が既に私達の存在に気が付いてくれたのです。他の人と言えば、私達の両親を始め、友達、まわりの人たちのことです。私達はまわりの人に囲まれて生きて成長してきています。そういう人がいなければ、私達も存在するはずがないのです。人間は一人で生きていることが出来ないからです。ですので、私たちがこの世に生きているということは他の人の存在を前提としているのです。他の人が存在しているからこそ、私達の生きている意味があるとも言えるのではないかと思います。

確かに、私達は他の人から様々なことを受けるのですが、「存在」そのものは神が与えてくれるものです。私達の「存在」「命」「自己」は最初に神が与えてくれるのです。人間同士はそれを与えたり受けたりすることが出来ないのです。私達に出来るのはその「存在」「命」を互いに支え合うことによって大事にすることだけです。存在そのものは神から頂いている最大の賜物なのです。しかも、それを頂くのはただです。お金で神様から「存在」を買う人は一人もいません。もちろん自分の存在・命を維持するのはたくさんの努力・時間・お金など掛けるのですが、存在そのものはただなのです。

私達が神から最大の恵みである「存在」を頂く、そして、たくさんの人から様々な支えを頂くという意味で私達は最初に与えられた存在なのです。つまり、私達は最初に与える側ではなく、受ける側なのです。私達は与えられている存在である以上、私達には神、他の人に与える責任があるのです。ここで注意すべきなのは、私達はもらうためにあげるのではなく、わたしたちが最初に与えられた存在であるという意識を持って他の人に与える責任感を持っているということなのです。与えるという行動は感謝のしるしなのです。もし、私達は誰かにもらうためだ、という動機であげるのであれば、私達は、私達に何かをくれたことのある人だけにあげるということになります。そして、私達にとってその人から何ももらえなさそうだと考えれば、その人に何もあげないことになります。人間関係の中では経済的な関係のような利益を求める行動は絶対に避けるべきだと思います。

3.出会い:「与える」と「もらう」場

出会いは「与える」と「もらう」という行動が起こる「場」です。私達は出会いの中で与える、出会いの中でもらうのです。出会うという言葉は「出る」と「会う」という二つの言葉から成り立っています。この場合の出るとは根源的に自分あるいは自己から出るという意味なのです。これは肉体的及び精神的な自分ではなく、人間として人間らしく生きるための最も根本的な意味を持っています。自分から出るという事は出会いの根本的な要素なのです。それは純粋で開かれた心と謙遜な態度が不可欠なものです。出会いの中でうまく行けないということは自分からまだ出ていないということのしるしなのです。ここで自己中心・自己満足のような態度は出会いの妨げとなるのです。

神様はイエス・キリストを通して、その模範的「出会い」を示してくれるのです。受肉「神が人間となった」出来事はその「出会い」の出発点だと思います。聖パウロはフィリピの信徒への手紙の中で「2:6-8」次のように語っています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で表れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。この箇所は神が自分から出て人間になって人間に出会うことを示しているのです。イエスは神の身分でありながら人間となりました。人間の姿を取るということは神が人間に出会う第一歩なのです。受肉という出来事がなければ、神は人間との出会いはあるはずがないと思います。

4.家族:もらうと与える場

私達は家族の中でもらうと与えるという行動を初めて学んで実行します。家族の中で、私達が自分の両親をはじめ周りにいる家族のメンバーを通して、彼らと共に成長して、与えられた存在であることに気がついたのです。なので、家族に対する感謝の気持ちで生きているということは何よりも一番大事なのではないかと思います。家族の中で人生を送ることは長い会話をすることとは同じなのです。その会話の中で、私達は出会いということを初めて学んで体験しているのです。両親との出会い、兄弟との出会いの中で私達は与えるともらうという行動を学んで、そして広い範囲でその愛に満ちている出会いを他の人との出会いの中で生かすのです。