月別アーカイブ: 2015年12月

年末年始=台所休み


(調理前の写真です。出来上がった時の写真は撮っていないです。すみません)

長期休みになりますと、台所は休みになります。
そこで、勇気ある神学生たちがご飯を作ることに挑戦します。
今日はフィリピン・ブラジル料理でした。
フィリピン料理は「シニガン」というスープです。
材料は写真の奥にあります。
タマリンドべーすのスープで、多くの野菜と豚肉が入っています。
すごーく美味しいです!
そして、手前はブラジアン風鶏肉のオーブン焼きです。
10月に行われたオープンハウスで余ったものです。
しかし、今回はBBQではなく、オーブンで焼いたそうです。
これもまた、美味しいかったです!

さて、休みも始まったばかりで、いろいろなメニューが出てきそうで、豚汁、豆スープなどが出るという噂もあります。
楽しみです!

ネットで写真見つかりました。
神学生が作ったものはこんな感じでした!

9日目 アフリ神学生

聖書箇所:マタイ9:9-13

先ほど朗読した箇所は「マタイの召し出し」について書かれています。マタイの召し出しは、三つの大事な点があります。それは、働く場、出会い、従うこと、という三つの点から成り立っています。第一は、マタイの職場についてです。マタイは収税所に座っていることから言えるのは、彼が働いているという一つの情報を獲得しました。人生を維持するために、一つの重要なことは働くのです。つまり、「働く」とは「生きること」と関連があるということです。第二は、「出会い」ということについてです。マタイはイエスと出会ったのは、職場でした。そこで生きるために働いているマタイは、新しい職場且つ新しい人生を提供しているイエスと出会いました。つまり、そこで出会ったのは、人生を維持する人と新しい職場を提供している人です。イエスの言葉であった「私に従いなさい」を通して、イエスはマタイに新しい人生を提供しています。この呼びかけをどう受け止めるのかは、マタイ次第にあります。

第三は、従うことについてです。イエスの呼びかけを聞いたマタイは、「立ち上がってイエスに従った」と記されてあります。マタイは座っている状態から、立ち上がることができるのは、彼の開かれている心によるのです。マタイは大事な「決断あるいは選択」をしました。その決断・選択は、自分のためにあるいは特定の人のために働くことから、より多くの人々のために奉仕することです。マタイは「金を集める人」から「神の愛を伝える人」という道を選択しました。

マタイは職場にいたときに、イエスと出会いました。職場は別の意味で、私達の心の状態だと思います。マタイは大事な職場を置いて、新しい道を選択したのは、彼の心は特定のもの・ことに縛られていないからです。そのおかげで、マタイは迷わず、優先的な生き方を選びました。この聖書箇所を通して、私達は修道生活を選択した時の心の状態を思い出す機会になります。

私たちはどのように決断するのか、あるいは選択するのかについて、模範的なことを教えてくださったのは、イエスの生き方です。彼が人間の姿を受け取ったことを選択したのは、救いをこの世にもたらすためでした。救いをもたらしたイエスは、多くの人々と関わったのが当たり前のことです。イエスは多くの人々と関係を持つにもかかわらず、宣教活動において、彼は優先的なことを選択しました。つまり、イエスは宣教活動において、ある「立場を取ります」。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人です」。イエスが「病人」を必要としている、と宣言するのは、自分の使命の立場を表示するためです。イエスは父からいただいた使命をラジカル的且つ完全に応えたのです。かくて、宣教活動に関するイエスの一貫性は模範的な召しだしになるのではないかと思います。

私たちは生きる中で、決断・選択をするのは一回限りのことではありません。これからも私たちは沢山のことを決断・選択しなけれならないかと思います。私たちもイエスとマタイのように、優先的なことを選択することができるように祈り求めましょう。

7日目 先山 諒神学生

聖書箇所:ルカ19:1-10

 

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。

それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 

 

皆さんは「借りてきた猫」という言葉を御存知でしょうか。普段はやんちゃだったり、騒がしかったりする人が、よそにいったり、知らない人前に出たとたん大人しくなり、まさに「借りてきた猫」のようになる様を指します。大人しくなる理由としては、周りからの体裁を気にしていたり、自分より目上の人の前であったりと理由は様々です。しかしながら先ほどの朗読で読まれたザアカイの行動は全くその逆と言ってよいと思います。イエスを見たいという一心でイチジクの木に登り、また自分の財産を施し、だまし取ったものを4倍にして返すとかなり調子のよい事を言っているようにも思えます。ザアカイにとってそれほどイエスとの出会いが大きなものであり、また大きな変化が会ったのだと思います。しかしそれに反し群衆は「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」と言っているあたり、徴税人に対しかなり不満があったのでしょうし、イエスに対しても思うところがあったように思えます。

ところで人が変わろうと思ったり、心を入れ替えようと一人で決心したりしてもそう上手くは行かないものです。芥川龍之介の作品に『蜘蛛の糸』という話があります。ご存知の方も多いと思いますが、このお話に出てくるカンダタという男は生前、殺人、放火、窃盗と様々な悪事を働いて地獄に落ちた人間でありましたが、たった一度だけ小さな蜘蛛を『命あるもの』と認識し、踏み殺すのをやめた、ということがありました。そのわずかな善い行いの報いとして、地獄の様子を極楽から見ていたお釈迦さまはカンダタを助けてあげるチャンスを与えることにしました。それは極楽から細い蜘蛛の糸を垂らす、というものでありました。カンダタはその糸をたぐりのぼり始めましたが、ふと下を見ると他の地獄の罪人たちもその糸を登ってきていました。その事に気づいたカンダタはこう叫びました。

「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に訊いて登ってきた。下りろ。下りろ。」

その瞬間、蜘蛛の糸はプツリと切れてしまい、他の罪人もろともカンダタは地獄の底に落ちてしまったのです。さて、カンダタは何故お釈迦さまに与えられたチャンスを生かすことが出来なかったのでしょう。当然ながら糸を独占しようとしたことが原因です。カンダタが糸を皆にも使わせてあげていたなら、もしかすると他の罪人と一緒に極楽に上れたのかもしれません。地獄に落ちながらも、カンダタは心を改めることは出来ませんでした。我々もあらゆる場面で改心するチャンスが与えられていますが、我々はその機会を真剣に受け止めているでしょうか。

こうした改心には何かしらの苦労や悩みを抱えることがあると思います。かなりの労力と時間がかかることだと思います。しかしそれ以上に大変なのは周りからの目です。それこそ周りから持たれている印象を変えるにはかなりの努力が必要でしょう。先ほどの朗読箇所でもザアカイは群衆から「徴税人」という目で見られていたため、辛辣な物言いをされたことと思います。しかしこれはザアカイ自身を見ていないということにもつながるのではないでしょうか。一方イエスはザアカイに救いが訪れたことを告げています。徴税人というよりも、ザアカイの信仰そのものを見通した言葉のように思えます。

私たちは、いつも何らかの「偏見」を持っています。これは多かれ少なかれすべての人に言えることでしょう。何故ならわたしたちが人と関わろうとするとき、必ず何らかのフィルターを通して物事を考えるからです。わたしたちが人とかかわるとき、その偏見を取り去る必要があるでしょう。しかしそれは恐らく無理です。人それぞれ相性がありますし、好みもあり、また考え方もあるからです。それでも、その偏見を心から受け入れないということは出来るのだと思います。そのために私たちは「それでも」と言い続けて、私たち自身も変わっていかなければならないのだと思います。

これからクリスマスを迎える私たちが、イエスが自身の降誕を通して、貧しい人、虐げられている人を訪れたように、私たちも多くの人を訪れ、また受け入れることが出来るよう祈りを通して準備をすることが出来ればと思います。

8日目 傍島義雄神学生

聖書箇所:「ルカによる福音書」(22:56-62)

   立願神学生  傍島 義雄

毎年、クリスマスが近づいて来ると、それにまつわるいくつかの出来事や、何人かの顔が思い出されます。

この聖書箇所からも思い出されることがあります。みなさんは、このペトロのように、イエスさまことなど知らないと、自分とイエスさまとの関係を断ち切ろうとしたことがあるでしょうか。今日は、私の経験を、皆さんと分かち合いたいと思います。

私が中学二年生の途中で、小神学校を辞めて出て行ったのは、クリスマスの少し前ぐらいだったと記憶しています。嫌な気持ちをたくさん抱えて小神学校を飛び出して来たので、その後は教会に行く気持ちになれませんでしたし、もう行くことができないという気持ちがありました。

それでも、クリスマス前晩になり、部屋に閉じこもっている私を母が呼びに来ました。「クリスマスぐらい教会に行こうよ」と言うのです。私は、自分は行かない、知ったことではないと拒みました。母は、「クリスマスには教会に行くと言っていたでしょう」と訴えてくるのですが、私は、知らない、自分とは関係がないと拒み続けました。そうこうするうちに、母が泣いてしまいました。母がボロボロと涙を流しながら私を見つめてきました。そして、私を置いて、兄や妹たちと教会へと出発していきました。母を泣かせてしまったなあと、私は、それなりに胸を痛めました。忘れられない記憶です。

その後も、出来ることなら教会の名簿から自分の名前を取り去ってくれなどと、今考えてみるととんでもないことを私は母に言うことがありましたが、それでも母は私にご飯を作りつづけてくれましたし、陰で祈ってくれていたと思います。

十年以上過ぎて、一人暮らしを続ける中で、どうしようもない心の飢えを感じ、私は再び教会に通うようになりました。教会に再び行くようになったということを母にE-メイルで報告し、それに対して、「どんな理由にしても、あなたが教会に行ってくれるのは、お母さんとしては嬉しいよ」といった返事を受け取ったときには、今度は私の方がボロボロと涙を流していた記憶があります。

先ほど読んだ聖書箇所に、「主は振り向いてペトロを見つめられた」とあります。この時のイエスのまなざしと、涙を流しながら私を見つめてきた母のまなざしとが重なり合います。ご自分を離れて行こうとする者、ご自分に反抗する者をも養い、信仰が無くならないようにと祈り、再びご自分の方へと導こうとしてくださるのがイエスのいつくしみだと思います。それは、きっと、親が我が子をいつくしむ以上のいつくしみです。

振り返ってみると、私が、イエスのことなど知らないと言って、ほとんどイエスを忘れて生活している時期であっても、イエスさまは私のことをいつくしみ深いまなざしで見つめ、道を踏み外し過ぎないようにと、守り、養ってくださっていたのだと思います。また、そこには、人知れず祈る母の姿があったのだと思います。

今回の分かち合いのための黙想を通して、クリスマスは、自分を産んでくれた人、育ててくれた人、信仰の大切さを伝えてくれた人に感謝する日でもあると感じました。私たちが、もう二度とイエスさまから離れたいなどと言い出さないように、そして、教会から離れている人々が再び教会に戻って来ることができるように、また、様々な理由で神学校を離れていった人たちの平安のためにも、心を合わせて祈りましょう。

共同回心式

今日は神学院地下聖堂にて共同回心式が行われました。
大橋神父様に聖書朗読と講話をしていただき、その後、希望者の告解が行われました。
講話は、いつくしみの特別聖年についてでした。
20151222_193438_839
大橋神父様、忙しいところ、神学院に来ていただき、誠にありがとうございます!

オスワルド、フランシスコ Hasta la vista!

今日は、グアダルペ会の二人の神学生、オスワルドさんとフランシスコさんが養成の新しい段階に入りました!
彼らは、2年間日本語を勉強しました。その間、ずっと、私たちの神学院で生活しました。そして、彼らが見事に勉強を終了し、司祭へ向けての道の新しい段階に入りました。それは、教区神学校での勉強です。これからは、彼らの先輩であるラファエル神学生と同じように、教区の神学校に入って、神学の勉強をします。しかし、神学校は4月に始まるということもあって、二人はそれまで千葉県内の教会で司牧体験をします。

二人は、私たち神言神学院共同体にとって、兄弟です!一緒にいたこの2年間は本当に楽しかったです!色々と分かち合い、話し合いができたことで、本当に嬉しいです!二人と共同生活ができたことを神に感謝します。

これからの二人の歩む道の上に神様の祝福が豊かにありますように、私たち神言会会員は祈り続けます!2年間、本当にお世話になりました。そして、お疲れ様でした!
これからも頑張ってね!!!

Hasta la vista, muchachos!

byebyemuchachos

左から:傍島、アフリ、先山、フランシスコ、ファノ、レンディ、リオ、オスワルド、エジルソン

 

 

 

6日目 ファノ神学生

聖書箇所:ルカ16章19−31節:お金持ちとラザロ

先ほど読まれた福音箇所には、お金持ちとラザロという人物がいました。
二人は対照的に描かれています。
お金持ちは、全てを持っています。彼は、良い服、食べ物、家、家族などを持っています。しかも、彼は聖書を持っているようです。つまり、彼は、ある宗教に属しているものでした。
逆に、このお金持ちと全く反対の状態にある貧しい人は何も持っていません。財産、家、家族、聖書などを持っていません。しかし、この貧しい人は、お金持ちにはない大切な一つのものを持っています。それは、名前です。その名前はラザロです。
この箇所の中で、お金持ちは、単に「お金持ち」と呼ばれています。彼の存在、人格、アイデンティティーは単に自分の持っているものと同一視されているのです。
彼は結局、陰府に入ったと書かれていますが、これは人間がその人生において自分の存在意義が自分の持っているものに同一視されると、そのうち堕落してしまうことを示しているのではないかと思います。
この例え話には、神の名前は一度も出ていません。神はどこにいるのでしょうか。様々な不正な行為によってお金持ちと貧しい人とのギャップが段々大きくなっていくこの世界の中では、この問いかけが表面化されています。これは弱い人、圧迫された人々、貧しい人が投げかける問いかけです。なぜ神様はその慈しみと力を彼らに示していないのか。神はどこにいるのでしょうか。
ラザロという名前は、エルアザルというヘブライ語に由来して、「神は私の助け」という意味を持っています。つまり、神の名前は貧しい人々の名前に刻まれています。神は常に貧しい人々の立場におり、彼らの助けとなるのです。私たちにとって、これはあらゆるレベルにおいて貧しい人々のために何かをしなければならないことを教えているのではないかと思います。もし今まで私たちが貧しい人、弱い人々に何もしなかったことがあるとすれば、今は回心のチャンスなのです。そして、これからも積極的に責任を持って、貧しい人々、弱い人々のために働かなければなりません。イエスがこの世に来られたのはまさにそのためです。
私たちは、あと少しでクリスマスを祝いますが、クリスマスという祝いは「ラザロの祝い」なのです。なぜなら、私たちは「インマヌエル、神が私たちと共にいる」という神秘だけではなく、「その神が私たちを助ける」という神の慈しみの神秘をも祝っているからです。

4日目 フランシスコ神学生(グアダルペ会)

聖書箇所:ヨハネ8、7−10

今月、いつくしみの年が始めたばかりで、神からその慈しみをいただいて、神の道に戻れるように、いいきかいとなりました。今日はこの聖書箇所でイエスがその慈しみを表しています。それは社会から排除された女を通してイエスが慈しみをもって法の正しい実行方法を教えています。このわかちあいで、女性の姿についてお話ししたいと思います。この聖書箇所ではイエスの時代の女性の社会的位置が示されていて、女性に対する差別的現実が見えるしょう。

確かに、この場面では女が姦通の現場で捕らわれたが、聖書では彼女と姦通した男についてなにも書いていません。なぜなら、律法では女だけを殺すように命じています。私達の時代では、女性に対する差別の実態がまだ続いているのではないかと思います。

もちろん、限度は異なりますが、国とか地域と文化などによって、同じ問題がいまだに続いているのではないかと思います。例えば、男性による女性の誘拐(ゆうかい)、家庭内暴力、死、性的虐待、差別などがニュースでも目にすることがあります。

教会でも時々聖職者や修道者が女性に対して冷たく接することがあります。そのため、女性が苦しむことがあるのではないかと思います。しかし、イエスは彼女の罪を許したことだけではなく、裁きよりも彼女の尊厳を大切にしました。ですから、このイエスの慈しみに対して律法学者が何もできませんでした。

イエスは母マリアの教えの影響を受けていることを忘れてはいけません。また、イエスがよく引用していた預言者イザヤが、愛のことを話すとき、母性的な愛の形で表現しています。

先ほど読んだ福音に出てくる律法学者みたいに、慈しみがなければ、マリアだって殺されることになったのでしょう。なぜなら、マリアは妊娠したときに、まだ結婚していなかったからです。ですから、福音に登場した女性のように、マリアも律法学者にとらわれて、裁かれたかもしれません。その可能性は十分にありました。だからこそ、特に私たち、聖職者・修道者に慈しみが必要です。

また、イエスが女性と話す前に「婦人よ」と、相手の女性を呼ぶことがありました。一見、これはストレートで冷たい呼び方だと思われるが、決してそうではありません。その呼び方は女性のタイトルであり、イエスが女性を大切にしていることを表していると思います。いくら罪にとらわれていても、イエスは相手の罪よりも相手の尊厳を大切にしていました。それは彼の慈しみ深い心のおかげです。ですから、私たちもそのイエスの心をもって人々と接することができるように祈りましょう。

5日目 オスワルド神学生(グアダルペ会)

聖書箇所:ルカ23、39−43

今日の福音の中で二人の犯罪者がイエス様に色々なことを言います。一人目の犯罪者はイエス様に冒瀆の言葉を吐きました。もう一人の犯罪者は自分の罪を認めて、イエスに一つのことを頼みます。「あなたが王権をもって来られるときには、どうか私を思い出してください」といいました。ここから何を学べますか。まず、一人目の犯罪者はイエス様を冒瀆したので、イエス様は何も答えませんでした。一方で他の犯罪者には「あなたは私とともに楽園にいるであろう」とイエス様はいわれ、二人目の犯罪者は救われました。彼は最後にイエス様を思い起こしました。しかし、一人目の犯罪者について,イエス様は何をされましたか。それについては何も書いてありません。イエス様は彼を責めることもしませんでした。私であれば彼を責めたでしょう。しかし、神様の考え方は人間の考え方を越えると思います。私たちは人を色々な形で裁いたり、評価したりしてしまいます。イエス様も裁こうと思えば一人目の犯罪者を裁くことができたでしょう。しかし、この聖書の箇所には彼を裁いたということは書いておらず、私はここから人を簡単に裁いてはならないということを感じました。人を簡単に裁いてはいけないこと、また2人目の犯罪者のように自分の罪を認め改心することを、この二人の犯罪者とイエス様の言動から私は学ぶことができました。

もう一つの点は、皆さまがもしイエス様の十字架の隣にいたら、何を言いますか。一人目の犯罪者のようにイエス様を冒瀆するか、あるいは二人目の犯罪者のように自分の罪を認めることですか。私は二人目の犯罪者のように自分の罪を認め、改心したいと思います。もし二人の犯罪者の立場になったら二人目の犯罪者のようにまっすぐに言えるかどうか分かりません。我々は人間であり、苦しんでいるときなど考え方が簡単に変わってしますものです。二人目の犯罪者も苦しい立場にあったからこそ、考え方が変わったのでしょう。日々の祈りを大切にし、いつもイエス様のことを思い起こし、私がもしイエス様に会える日が来るとすれば自分自身に正直で二人目の犯罪者のように改心した良い人となれるように努力していかなければならないと思います。

3日目 神学生 荒田 啓示

聖書箇所:ルカ7:41-50

私たちの日常生活において、赦す、赦されるという事柄は身近にあります。家族、友人、その他多くの人と関わる中で、何かを赦したり、赦されたりすることは誰もが何度となく経験していることだと思います。個人的に赦すことよりも赦されたことの方が圧倒的に多いのです。それはもちろん私が過去に様々な悪事を働いてその罪をことごとく赦してもらいながらここまで生きてきた、ということもありますが、赦される、ことよりも赦すことの方が何倍も難しいことであるからではないでしょうか。

では何らかの事があって他人を赦さない、と思ったことはあるでしょうか。私は特に執念深い人間でありますので、過去にあった些細なこともよく記憶しています。表面的には相手を赦したつもりでも、内心恨み続けたこともあります。同じような経験をされた方はわかると思いますが、相手を赦さない、ということは物凄いエネルギーを生み出します。このエネルギーは時に、相手を見返してやる、といったように今後の人生を生きる気概を与える原動力ともなり得ますが、裏を返せばそれは憎しみに満ちた復讐、報復に繋がる場合もあります。特に人の命が関わる事件となれば、被害者の遺族らはこの強いエネルギーを以って長い裁判を戦いますし、これが国単位での話になれば報復攻撃から戦争へと繋がることになります。こう考えると、赦すことと、赦さないことでは、その後の自分と相手の人生は大きく変化するものなのかも知れません。

熊本県熊本市にある慈恵病院では、親が育てられない赤ちゃんを匿名で預けることが出来る窓口として「赤ちゃんポスト」を開設しています。2007年の開設以降、これまで100人以上の赤ちゃんが預けられ、里親に迎えられた子もいれば、施設に入所する子、または実の親が引き取りに来た子もいます。ある男の子は、このポストに預けられた時、既に物心がついており、その時の様子を鮮明に覚えていると言います。しかし、普通なら苦しみとなるであろう過去をこの男の子は新しい家族の愛情を受けながら乗り越えようとしています。男の子はこう言います。「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)に入れてくれたから、今ここで生活している。もし違うところに行っていたら、今のお父さん、お母さんにも会えなかった。そういった意味では、ちゃんと入れてくれて良かった」

この男の子は新しい家族の愛を受けることで、捨てた実の親を赦す力を与えてもらっているのではないかと思います。自分だけでは憎しみを募らせるばかりの出来事も、他の人の愛や理解を受けることによって相手を赦す力が与えられることもあるわけです。しかしながら預けられた赤ちゃん全員がこの男の子のように里親に迎えられ、愛情を注がれるわけではありません。また物心つかない時に里親に迎えられたとしても、今の時代、戸籍関係の書類やマイナンバーから自分が捨てられた子であると理解する時が来るでしょう。その時、何の罪もない自分を捨てた実の親を赦すことが出来るでしょうか。この赤ちゃんポストには命を救うことが出来るという命の尊厳という観点からは大きな力がありますが、子供の出自を知る権利、またそこから来る実の親への感情といった多くの課題も残されています。

今日の箇所でイエスは「私に示した愛の大きさ」という言葉を使って、赦されることについて語っています。このことはイエス自身へと向けた愛の大きさという意味に加え、イエスの姿を通して重ねることの出来る全ての隣人、つまり私たちと関わる全ての人に対しての愛の大きさが、自分への赦しに繋がっているのだと私は思います。待降節も終盤を迎えましたが、全ての罪を赦されたイエスにならい、そして自分に非が無いことでさえ、実の親を赦す力を得たあの男の子にならい、私たちも多くの人に対して大きな理解と愛を以って接することが出来るよう祈りながら、主の降誕を迎える準備を整えて参りましょう。