月別アーカイブ: 2016年3月

新しい仲間!

仲間が増えました!
御受難修道会の馬場神学生が私たちとともに生活し、南山大学で哲学と神学の勉強をすることになりました。
馬場神学生、神学院へようこそ!
自己紹介はこちらでご覧ください。


みなさま、馬場神学生のためまた神学生たちのためにお祈りくださいませ!

復活徹夜祭の説教(品田神父)

復活徹夜祭

(2016年3月26日)
神学院大聖堂
品田神父

皆さん、主の御復活おめでとうございます。

今日読まれた福音書には、週の初めの日、朝早く婦人達がイエス様の墓を訪れた時の出来事が描かれています。「墓」はイエス様の亡きがらが埋葬されているところであり、イエス様亡き後、暗闇の中に生きる彼女達にとって愛するお方との思い出に浸れる場所だったのかもしれません。だから「墓」は婦人達が過去の思い出の中で、亡きイエス様と関わろうとしていることを表しています。彼女だけではなく弟子達も十字架上でイエス様が殺されて以来、自分達の思い出、心の痛み、悲しみを互いに分かち合っていたことでしょう。そして話せば話すほどに自分達の失敗と失った者の大きさに気がつき、どんどんと心の闇が深くなり、落ち込んでいってしまったのだと思います。イエス様への愛が大きければ大きいほど、弟子達の心の闇も深くなっていくのも理解できます。もしかしたら暗い墓に閉じ込められていたのは、イエス様ではなく、絶望的な気持ちを持って過去だけを見つめ続ける婦人達や弟子達の心であったのかもしれません。イエス様と一緒のとき彼らは、自信にあふれいつでも心を開いていました。しかしイエス様を失うことによって心が固く閉ざされてしまい闇の中に閉じ込められてしまっていたのでしょう。これでは過去におけるイエス様との出会いや素晴らしい思い出さえも呵責の念しか呼び起こさなくなってしまいます。

私達が生きている人生には、様々な時があります。すべてがうまくいき、生きていることが楽しくて仕方がない時。他の人のために働くことに喜びを感じ、軽い足取りで歩んでいける時。弟子達がイエス様と共に働いていた時は、このように感じていたと言えるでしょう。しかし、同じ人の人生でもまったく違った時もあります。生きていること自体が苦しくて、どのようにして乗り越えてよいかわからなくなる時、過去を思い出せば憂いを感じ、将来を考えれば心配と不安しか感じられない耐え難い時もあります。人生の暗闇です。これはイエス様を見失ってしまった後の弟子達や婦人達そのものです。私達の人生においても苦しみのあまりに、あたかもキリストを見失ってしまったかのように感じてしまう時もあります。

しかし、神様は、イエス様が埋葬されていた墓の石だけではなく、弟子達や婦人達の心を閉ざしていた大きな石も取り除き、十字架にかけられて死んだイエス様が復活されたことを知らせてくれました。同様に私達が辛い時、苦しい時、特に神様すら見失ってしまっている時に神様は、私達の心の石を取り除き、私達の傍らを共に歩んでくださる、よみがえられたキリストと出会わせてくださるのです。そして開かれた心を持って世界を見ると、どんなときでも神様が見守り支えてくださっていること、そしてあなたの周りにいて暖かく明るい光を送り続けてくれている優しい人達が見えてくるのです。

よみがえられたキリストと出会うことによって人間というものは、変わります。福音書に登場する人物は、婦人達も弟子達もイエス様のために命を失うことすら厭わなくなるほどの勇気を持つにいたりました。そうなるためには暗闇の体験が必要だったのです。暗闇が深ければ深いほど、その中で光はより一層、輝き始めるのです。イエス様の復活の光、愛の光によって暗闇を照らしてみたときに、人生の暗闇や苦しみは神様の光といつくしみが差し込むための入口であったことに気がつきます。どうか御復活されたキリストが光となって私達の心の中で輝きますように。そして私達も闇の中に生きている人達のための光となれますように祈りましょう。

聖木曜日・聖母崇敬式

聖木曜日
聖母崇敬式

神学院地下聖堂にて
2016年3月25日
アフリ・ディエトゲル助祭

「十字架のそばに母がいた」。「そば」という言葉を辞書で調べてみたところ、「傍ら」以外に「間を置かないことという意味」が出てきました。「間を置かない」とは、「親しむこと」と「共にいること」という意味として考えることもできます。全福音を見てみると、母マリアとイエスとの関係は、「親子として親しむこと」と「共にいること」にあります。マタイとルカは、母マリアは幼子イエスと一緒にいること、ルカは青年のイエスが過越祭の時に一緒に両親とエルサレムに旅したこと、ヨハネはカナでイエスの宣教活動において母マリアもそこにいたこと、などについて記しています。

母マリアは、幸せの時、あるいは楽しい時だけに留まらず、ユダヤ人にとって「神に呪われた者の死」の形としての十字架の下までイエスと一緒にいました。そこで母マリアの態度は切り離さない二つの面があります。一つ目、母としてのマリアはイエスを愛していること、二つ目は、イエスの中に神の御業があることを信じる方として、母マリアは神に対して忠実であることです。「愛すること」と「忠実である」ことは、現代の問題だけではなく、旧約の時代からずっと生じた一つの問題です。イスラエル人は、「主である神を信じる」と言ったにも関わらず、「神々との出会いによって」主である神の掟に逆らって、忠実ではなかったのです。現代の家庭・あるいは修道生活に直面している一つの問題も「愛と忠実」にあると思います。私たちがミサの中によく歌っているのは、「愛と忠実を互いに尽くし合い、よきときも、苦しみの時も結ばれる。高めあい、深め合いながら、結ばれる」。十字架のそばにいる母マリアは、「愛と忠実」という模範的なことを完全に実行しました。

イエス様の生涯が短いであって、母の忠実さと愛情を見たイエスが、世から去って行く前に、尊敬を持って、母と愛する弟子に「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です。見なさい、あなたの母です」と言われました。その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。家に引き取るとは、「歓迎する姿勢・あるいは受け入れる姿勢」として意味しています。また、家に引き取るとは、私たちの開かれている心であり、私たちの心の状態でもあります。家の中に生まれた子ども・あるいは家がないという理由で外で生まれた子供でも、歓迎する両親の心の状態が子供にとって一番大きな喜びです。歓迎する姿勢によって、両親は子供と一緒におられ、彼らの間に親しみ関係を築かれることができます。

イエスが生まれてから、母マリアは愛を持って、彼を歓迎し、彼の宣教活動を支え、その歓迎する姿勢はイエスの最後の生涯まで忠実でした。イエスは母の愛と忠実さを長く返すことができないのですが、死の前に自分の代わりに愛する弟子に母を自分の家に引き取るようにお願いしました。母マリアはイエスに対していつも歓迎する姿勢を持つことように、イエスの愛する弟子も母マリアを自分の母として家に引き取りました。

愛する弟子は母マリアを受け入れることのように、私たちも開かれている心を持って、日常生活の中で母マリアを受け入れるのか、あるいは彼女の模範にならうのかが、この聖母崇敬式を通して確認する機会となります。母マリアを受け入れるとすれば、母マリアが示してくださった愛と忠実をも受け入れるということになります。

 

聖金曜日の説教

聖金曜日

神学院大聖堂
2016年3月25日
暮林神父

過越しの祭りの日の明け方、人々はイエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行きましたが、自分では官邸に入りませんでした。汚れないで過ぎ越しの食事をするためであったとあります。割礼を受けていない者と接触することが、この日の食事を汚すと考えられたのでしょう。

人々は、神の愛を示すイエスのわざには心を閉ざし、神の子メシアを自称したかどで愛のない正論に基づいて、このイエスを、汚れ多き総督官邸に押し込め、除外し、消し、自分たちは清さを保って過ぎ越しの祭りを始め、いつもの子羊を食べることに落ち着こうとします。今まで通りの居心地の良い生活を続け、今まで通り罪びとや伝染病者たちを汚れをもたらすものとして避け、今まで通り愛も理解もない正論で娼婦や徴税人を断罪し、今まで通り食事の前に手を洗うことで清められたとし、今まで通り回心することなく、今まで通り嘆く人々に心から共感することなく、今まで通り愛することなく、いままで通りの子羊を食べて過越しを祝うのです。

今まさに、神の子羊がその血を流し、多くの人のあがないとして自分の命をささげるその瞬間が、自分たちの憎しみや嫉妬によって引き起こされるとはつゆ知らず。そして自分たちがいつも通りの子羊を食べている間に、神の子羊の命をいただき損なうことになっているとは思いもせず。

イエスはこのような権力者たちの愚かな衝動によって、つまらない裁判で断罪され、無残に十字架に架けられ、その命を削ります。不必要な孤独、嘲笑、苦痛、死です。けれどそれは、人類の歴史を通して、そして二千年経った今でも同じような不条理に苦しむ人たちに神がとことんまで寄り添い、神の子羊として命を与え続けることを示すために必要な孤独、嘲笑、苦痛、死でした。そして同様に、愛のない正論や愚かな衝動でわたしたちが人を傷つけていることに気付かせ、回心を促すために必要な孤独、嘲笑、苦痛、死でした。

今日、主は改めて、愚かにも人を傷つけるわたしたちや、あるいは不条理に苦しむわたしたち、わたしたちを取り巻く人々のためにその受難の姿をわたしたちに示します。ここに、永遠から永遠にいたる神の愛があります。裸の祭壇も、十字架上の裸のイエスも、すべてはぎ取られてなお、神の命が人を励ますため、支えるため、高めるためにこうこうと火をともし続けていることを、わたしたちに無言のうちに語ります。十字架上の、傷つけられ、唾で汚され、殴られ、罵倒され、呪われた、死にゆくイエス。そこにはピラトには答えを見いだせなかった真理があります。そこには自由があります。そこには平和があります。そこには神の力があります。そこには神の知恵があります。そこには、愛があります。

うちひしがれそうになっても、「見よ、キリストの十字架、世の救い」という呼びかけに答えて顔を上げ、キリストの十字架を見つめ、生かす神、生ける神の子羊の命をいただきましょう。わたしたちの愚かなこだわりを正すために主は苦しまれ、わたしたちを癒すために傷つけられ、わたしたちを清めるためにその血によってわたしたちが抱えている十字架を覆ってくださいます。

見よ、キリストの十字架、世の救い。共に、あがめ、たたえよう。

聖木曜日の説教

主の晩餐

神学院大聖堂
2016年3月24日
マリス神父

 皆さんに、イエスが弟子たちの足を洗う場面を想像していただきたいです。弟子たちの前にしゃがんで、ひざまずいて、弟子たち一人ひとりの足を洗うイエスの姿を想像していただきたいです。弟子たちの足を洗うのは師である、先生であるイエスです。しかし、同時に、弟子たちの足を洗うのは神の子イエスです。弟子たちの前にひざまずいているのは神ご自身です。罪人が神の前に、私たちが十字架の前で赦しをこいねがう前に、神は罪にまみれた人間の前にひざまずいているのです。やがて自分を知らないと否定するペトロの前に、自分を裏切るユダの前に、あなたの前に、私たちの前に神ご自身がひざまずいているのです。神の方が人間の前にひざまずいて、こいねがっているということです。「お願いだから、帰ってきてほしい」と、あの放蕩息子に対する父親の思いで、あるいは失われた羊を探し回って連れ戻す良い羊飼いの思いで、イエスは弟子たちの前にひざまずいて、彼らの足を洗ったということです。弟子たちの足を洗うイエスの姿は、慈しみにあふれる父なる神の姿そのものです。私たち一人ひとりに対する慈しみにあふれる神の思いそのものです。
その裏腹に、イエスと弟子達との最も親密な関係にあるこの最後の晩餐の場面に、そこにイエスを裏切るユダが繰り返し登場します。ユダは洗足の場面に三回繰り返し登場します。あたかも愛が充満しているるところに、悪の力がそれを対抗しようとする、正に今の世界の現状、そして私たちの心の中で日々繰り返し起こる善と悪の戦い(迷い)、忠実さと裏切り、愛と憎しみの戦いがあの最後の晩餐の部屋にも感じ取れるような気がします。しかし、その迷いの中でイエスが選ぶのは自分の意志ではなく、御父のみ旨です;憎しみではなく、許しです;苦しみから逃げることではなく、十字架の道を最後まで歩み続けることです。かけがえのない私たち一人ひとりを救うために;突き刺された脇腹から流れ出た水と血で、私たちの罪を洗い清めるためです。
イエスの弟子とは、キリスト者とは、神の恵みの大きさ、神の慈しみ深さに驚き、ペトロのように及ばずながらも、その思いに答えようとする人々です。
主に洗われたものとして、主に無条件に愛されたものとして、主にゆるされたものとして、主に生かされたものとして、私たちも主の模範にならい、主の思いに答えて、お互いへの憎しみと無関心、裏切りと利己心を捨てて、互いに足を洗い合う、弱さや足りなさを含めて互いに認め合う、互いに許し合う、互いのためにこれからも兄弟として日々生きていく決心を新たにしたいものです。そして、この世界に真の平和が訪れますように。

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ミサの様子はこちら

2016年 聖週間典礼スケジュール

聖木曜日 3月24日
・主の晩餐(大聖堂)17時から・聖体礼拝式(地下聖堂)20時から

聖金曜日 3月25日
・十字架の道行き(大聖堂)15時から
・主の受難(地下聖堂)17時から
・聖母崇敬式(大聖堂)20時から

聖土曜日 3月26日
・復活徹夜祭(大聖堂)19時30分から

日曜日 3月27日
・復活の主日(大聖堂)7時から
・聖体賛美式(地下聖堂)18時から

 

フラトレス2016年度の新体制

先日、フラトレスの2016年度の係と目標が決まりました。
典礼係、作業係、スポーツレクリエーション係、経理係、の係長が決まり、新たなフラトレス会長も誕生しました。今年はジョナサン神学生が会長を務めることになりました。

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前会長のファノ神学生と新会長のジョナサン神学生

 

また、フラトレスグループの2016年度のVISIONとミッションステーテメントは次のように決まりました。

Vision
「神との対話、他者との対話、自分との対話に開かれた窓」

Mission
「祈りとみ言葉を通して神と親しみ、
集中力と自制心を高め、
思いやりと感謝の心で
一致した家族の証をする」

みなさま、フラトレスたちのためにお祈りくださいませ!

下は係決めの様子と、2016年度の目標を決める様子です。

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3月19日 助祭叙階@神学院

皆さまの支えと支援と祈りのおかげ、ディエトゲル・アフリ神学生とセルヴァシウス・サルファノ神学生の2名が助祭叙階の恵みをいただくことになりました。
松浦司教さまの司式の元、3月19日(土曜日)、午前10時に神学院にて執り行います。ぜひ来てください!

これからも2人と神学生たちのために祈り続けてくださいますよう、お願いします!

下の写真は式の練習の様子です。

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誓願更新!

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上、左から:ファノ、エジルソン、アフリ、先山 下、左から:傍島、荒田、原、寺尾神父様、ジョナサン

みなさまの支援と祈りのおかげでフラトレス(神学生)たちが誓願を更新しました。
寺尾神父様の指導のもと、1週間の黙想をいたしました。
その後、彼らは祭壇の前へ進み出て、貞潔・清貧・従順を1年誓いました。
神が与えてくださった召命を全うすることができるように祈りましょう!