3日目 神学生 荒田 啓示

聖書箇所:ルカ7:41-50

私たちの日常生活において、赦す、赦されるという事柄は身近にあります。家族、友人、その他多くの人と関わる中で、何かを赦したり、赦されたりすることは誰もが何度となく経験していることだと思います。個人的に赦すことよりも赦されたことの方が圧倒的に多いのです。それはもちろん私が過去に様々な悪事を働いてその罪をことごとく赦してもらいながらここまで生きてきた、ということもありますが、赦される、ことよりも赦すことの方が何倍も難しいことであるからではないでしょうか。

では何らかの事があって他人を赦さない、と思ったことはあるでしょうか。私は特に執念深い人間でありますので、過去にあった些細なこともよく記憶しています。表面的には相手を赦したつもりでも、内心恨み続けたこともあります。同じような経験をされた方はわかると思いますが、相手を赦さない、ということは物凄いエネルギーを生み出します。このエネルギーは時に、相手を見返してやる、といったように今後の人生を生きる気概を与える原動力ともなり得ますが、裏を返せばそれは憎しみに満ちた復讐、報復に繋がる場合もあります。特に人の命が関わる事件となれば、被害者の遺族らはこの強いエネルギーを以って長い裁判を戦いますし、これが国単位での話になれば報復攻撃から戦争へと繋がることになります。こう考えると、赦すことと、赦さないことでは、その後の自分と相手の人生は大きく変化するものなのかも知れません。

熊本県熊本市にある慈恵病院では、親が育てられない赤ちゃんを匿名で預けることが出来る窓口として「赤ちゃんポスト」を開設しています。2007年の開設以降、これまで100人以上の赤ちゃんが預けられ、里親に迎えられた子もいれば、施設に入所する子、または実の親が引き取りに来た子もいます。ある男の子は、このポストに預けられた時、既に物心がついており、その時の様子を鮮明に覚えていると言います。しかし、普通なら苦しみとなるであろう過去をこの男の子は新しい家族の愛情を受けながら乗り越えようとしています。男の子はこう言います。「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)に入れてくれたから、今ここで生活している。もし違うところに行っていたら、今のお父さん、お母さんにも会えなかった。そういった意味では、ちゃんと入れてくれて良かった」

この男の子は新しい家族の愛を受けることで、捨てた実の親を赦す力を与えてもらっているのではないかと思います。自分だけでは憎しみを募らせるばかりの出来事も、他の人の愛や理解を受けることによって相手を赦す力が与えられることもあるわけです。しかしながら預けられた赤ちゃん全員がこの男の子のように里親に迎えられ、愛情を注がれるわけではありません。また物心つかない時に里親に迎えられたとしても、今の時代、戸籍関係の書類やマイナンバーから自分が捨てられた子であると理解する時が来るでしょう。その時、何の罪もない自分を捨てた実の親を赦すことが出来るでしょうか。この赤ちゃんポストには命を救うことが出来るという命の尊厳という観点からは大きな力がありますが、子供の出自を知る権利、またそこから来る実の親への感情といった多くの課題も残されています。

今日の箇所でイエスは「私に示した愛の大きさ」という言葉を使って、赦されることについて語っています。このことはイエス自身へと向けた愛の大きさという意味に加え、イエスの姿を通して重ねることの出来る全ての隣人、つまり私たちと関わる全ての人に対しての愛の大きさが、自分への赦しに繋がっているのだと私は思います。待降節も終盤を迎えましたが、全ての罪を赦されたイエスにならい、そして自分に非が無いことでさえ、実の親を赦す力を得たあの男の子にならい、私たちも多くの人に対して大きな理解と愛を以って接することが出来るよう祈りながら、主の降誕を迎える準備を整えて参りましょう。

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