3日目「歩みの記憶」神学生荒田

ルカ24章28−35節
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

皆さんは、自分のこれまでの人生を振り返ってみたとき、事細かに過去の出来事を記憶しているでしょうか。今日のテーマは「歩みの記憶」ということで、私も少し自分のこれまでを振り返ってみました。すると、最近の出来事はある程度詳細に思い出せるのですが、昔のことになるにつれ、記憶があやふやになっていました。ですが、出来事の詳しい過程は思い出せなくとも、その場に居合わせた人やその時に関係の深かった人のことはよく思い出せました。これは自分にとって良い思い出であっても苦い記憶であっても同じです。このことから、私は自分のあらゆる出来事の中に、必ずと言って良いほど「他者」の存在が深く関わっていることに気付かされました。自分と、誰か。この構図の上では、様々な問題も起こり得ますが、大きな喜びもここから生まれるのではないでしょうか。

自分の神学院生活に目を向けてみると、私は常に誰かと共に生活してきましたし、今もそれは変わりません。自分独りではどうしようもないことも、誰かと分かち合うことが出来ます。これは非常に大きな恵みであると言えるでしょう。

東北での復興支援活動に「お茶っこ」というものがあります。仮設住宅の集会所や野外テントなどで地域の人々を集めて談笑する、というものです。傾聴する、というよりもむしろその地域や仮設のコミュニティ作りに焦点を当てた活動でありました。時間になると、私たちが呼びかけるより先に集会所で準備してくれているところもあり、仮設全体で見ても良く受け入れられていた活動であったと思います。色んな仮設でのお茶っこを行ってきましたが、皆同じことを言ってくれます。「このみんなで集まってくだらない話で大笑いする時間が本当に楽しい。独りでいると、悲しい記憶ばかり思い出してしまうから」と。人が集まっているところに生まれる活力は何物にも代えがたい力であり、神が私たちに与えてくださった大きな希望であると思います。

先ほど読んだ福音箇所では、エマオへ向かう二人の弟子の様子が描かれています。この弟子たちも、一人ではなく、二人いたというところに私は注目しました。二人いたからこそ、彼らはイエスが共におられた瞬間のことを「語り合う」ことが出来ました。今、私たちも自らの歩みの上で、多くの人と語り合う機会に恵まれています。この恵みに深く感謝しながら、より良い形で歩みの記憶を刻んでいくことができるように努力してまいりましょう。