7日目 先山 諒神学生

聖書箇所:ルカ19:1-10

 

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。

それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 

 

皆さんは「借りてきた猫」という言葉を御存知でしょうか。普段はやんちゃだったり、騒がしかったりする人が、よそにいったり、知らない人前に出たとたん大人しくなり、まさに「借りてきた猫」のようになる様を指します。大人しくなる理由としては、周りからの体裁を気にしていたり、自分より目上の人の前であったりと理由は様々です。しかしながら先ほどの朗読で読まれたザアカイの行動は全くその逆と言ってよいと思います。イエスを見たいという一心でイチジクの木に登り、また自分の財産を施し、だまし取ったものを4倍にして返すとかなり調子のよい事を言っているようにも思えます。ザアカイにとってそれほどイエスとの出会いが大きなものであり、また大きな変化が会ったのだと思います。しかしそれに反し群衆は「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」と言っているあたり、徴税人に対しかなり不満があったのでしょうし、イエスに対しても思うところがあったように思えます。

ところで人が変わろうと思ったり、心を入れ替えようと一人で決心したりしてもそう上手くは行かないものです。芥川龍之介の作品に『蜘蛛の糸』という話があります。ご存知の方も多いと思いますが、このお話に出てくるカンダタという男は生前、殺人、放火、窃盗と様々な悪事を働いて地獄に落ちた人間でありましたが、たった一度だけ小さな蜘蛛を『命あるもの』と認識し、踏み殺すのをやめた、ということがありました。そのわずかな善い行いの報いとして、地獄の様子を極楽から見ていたお釈迦さまはカンダタを助けてあげるチャンスを与えることにしました。それは極楽から細い蜘蛛の糸を垂らす、というものでありました。カンダタはその糸をたぐりのぼり始めましたが、ふと下を見ると他の地獄の罪人たちもその糸を登ってきていました。その事に気づいたカンダタはこう叫びました。

「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に訊いて登ってきた。下りろ。下りろ。」

その瞬間、蜘蛛の糸はプツリと切れてしまい、他の罪人もろともカンダタは地獄の底に落ちてしまったのです。さて、カンダタは何故お釈迦さまに与えられたチャンスを生かすことが出来なかったのでしょう。当然ながら糸を独占しようとしたことが原因です。カンダタが糸を皆にも使わせてあげていたなら、もしかすると他の罪人と一緒に極楽に上れたのかもしれません。地獄に落ちながらも、カンダタは心を改めることは出来ませんでした。我々もあらゆる場面で改心するチャンスが与えられていますが、我々はその機会を真剣に受け止めているでしょうか。

こうした改心には何かしらの苦労や悩みを抱えることがあると思います。かなりの労力と時間がかかることだと思います。しかしそれ以上に大変なのは周りからの目です。それこそ周りから持たれている印象を変えるにはかなりの努力が必要でしょう。先ほどの朗読箇所でもザアカイは群衆から「徴税人」という目で見られていたため、辛辣な物言いをされたことと思います。しかしこれはザアカイ自身を見ていないということにもつながるのではないでしょうか。一方イエスはザアカイに救いが訪れたことを告げています。徴税人というよりも、ザアカイの信仰そのものを見通した言葉のように思えます。

私たちは、いつも何らかの「偏見」を持っています。これは多かれ少なかれすべての人に言えることでしょう。何故ならわたしたちが人と関わろうとするとき、必ず何らかのフィルターを通して物事を考えるからです。わたしたちが人とかかわるとき、その偏見を取り去る必要があるでしょう。しかしそれは恐らく無理です。人それぞれ相性がありますし、好みもあり、また考え方もあるからです。それでも、その偏見を心から受け入れないということは出来るのだと思います。そのために私たちは「それでも」と言い続けて、私たち自身も変わっていかなければならないのだと思います。

これからクリスマスを迎える私たちが、イエスが自身の降誕を通して、貧しい人、虐げられている人を訪れたように、私たちも多くの人を訪れ、また受け入れることが出来るよう祈りを通して準備をすることが出来ればと思います。

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