説教・聖書分かち合いなど」カテゴリーアーカイブ

1日目 グエン・タン・ヒ神学生

 クリスマスというのは、神様から全人類に救い主・幼い子という大きな贈り物を私たちにくださった記念です。

 今日の第一朗読、イザヤの預言56章の題名は「異邦人の救い」と新共同訳をめぐってみれば、そこには書かれています。神様が全ての民族、地球上にある全人類への救いを望んでいると、私たちはそう教えられ、信じています。

 マタイ7:24~28「カナンの女の信仰」、あるいはマルコ15:21~30「シリア・フェニキアの女の信仰」でも、異邦人への救いが旧約から新約にかけて、イエス・キリストを通して、成就されることを明白に書かれています。カナンの女の信仰の話では。 続きを読む

八雲町神学院建設50周年「感謝年」ミサの説教

神言神学院50周年記念

開会ミサ
神学院、2016年5月27日(金)
神学院長マリアヌス・パレ・ヘラ神父

 日本管区での神学院の歩みは1949年に始まりました。戦後間もなく、敗北から這い上がってきた戦後日本と共に、神学院も小さな一歩を踏み出しました。最初は滝川町で、浄土真宗のお坊さんになるための専門学校の土地建物を司祭宣教師を養成する場に変身させました。司祭二人、神学生10人という体制でした。戦後という、けっして楽な時代ではなかったはずです。しかし、先輩たちはその時代が差し出したチャレンジをチャンスとして見ていたのです;み言葉をより深く根付かせるチャンスとして見ていたのです。目の前のことだけではなく、20年先、30年先、50年先のことを見抜いていたのです。初代院長トナイク神父様をはじめ、当時の先輩たちの強い決心、惜しみない努力、鋭いビジョンがあってこそ、今の神学院があるのではないでしょうか。 続きを読む

聖霊降臨ノヴェナ 6日目 馬場神学生

2016年5月11日の分かち合い
「平和」について

朗読:ルカ24:50−53
ルカによる福音
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。// そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。//
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
今日の分かち合いのテーマは「平和」です。

まず、私はまだ勉強中であるため、この分かち合いの内容が間違っているかもしれません。その旨を予めお詫びいたします。そして、もし間違っている箇所がありましたら、必ず後で教えてください。よろしくお願いします。
さて、「平和」とは何でしょうか?辞書で調べてみると、「①戦争や紛争がなく、世の中が穏やかな状態にあること。また、そのさま。②心配やもめごとがなく、おだやかなこと。また、そのさま。」とあります。そうなのでしょうが、何だかピンときません。では、私たちキリスト者にとって「平和」とはなんでしょうか?
と、その話をする前に、
私たちは今、主の昇天から聖霊降臨までの間にいます。昇天されたので主が共におられない。///この一週間にはどのような意味があるのでしょうか?今、私たちは何をしなければならないのでしょうか?
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言いますが、私たちは同じような経験をほんのひと月ほど前にもしていた筈です。///「主がともにおられない」という体験、そう聖土曜日の始まりから復活徹夜祭までの約30時間です。聖堂から何もかもが取り去られ、隠され、私たちは「主がともにおられない」ことを強く感じた筈です。しかし、この一週間はそうではありません。何が違うのでしょうか?
イエス様は弟子たちに、ご自身の御受難と死、そして復活を3度も話されました。しかし弟子たちはイエスの死後、人々に福音を告げ知らせずに、それぞれ元の場所に戻ってしまいました。彼らが自分たちの近くにいつもいるイエス様がいなくなったこと、そして「主は復活されて再び来る」というイエスの言葉を理解出来なかったからではないでしょうか?//しかしその後、弟子たちや女性たちがそれぞれ「イエスの復活」を体験するようになるにつれイエスの言葉、つまり自らの派遣とイエスに代わって弁護者が来ることを理解し、それに生きるものと変わったのです。「福音を宣べ伝えるのは、ほかの誰でもない私である。」と。だから彼らがイエスの昇天の後に大喜びで人々に福音を告げ知らせることが出来たのではないでしょうか。
ここで「平和」についての話に戻ります。エフェソの信徒への手紙では「キリストはわたしたちの平和である」と述べています。キリストは、その肉によって平和を実現され、私たちをキリストに生きる者つまり、平和に生きる者としてくださいました。すなわち、愛であるキリストが、私たちを愛に生きる者としてくださったとも言い換えることが出来るのではないでしょうか。//私たちは平和に生きる者です。
私の好きな言葉の一つに、「暗いと不平を言うよりも進んで明かりをつけましょう」があります。小さな頃から幾度となく耳にしてきたこの言葉が、なぜか最近になって心に染みるようになりました。こころのともしび運動が私に蒔き続けてくれた種が、やっと根を張り、芽を出したのかもしれません。この言葉は、愛を行いのはほかの誰でもなく私である。私が進んで愛を実践する。という意味であると私は理解しています。
そこで愛の実践についてお話ししたいと思います。私の志願期と修練期に修女連の合同修練に参加する機会をいただきました。その中で特に心に残った神父様の話が、「愛とは優しく、ほわっとしたものではない」ということです。修道院の生活は様々な人が集まった共同生活です。当然考え方も十人十色です。そのような生活の中で、愛することとは、例えば、ある修道院で、一人のシスターが開けっ放しになったトイレのドアを毎日黙って閉めているような話がありました。全員が開けっ放しにするわけではありません。ごく一部の人が開けっ放しにするのです。開けっ放しにすると臭いや音が漏れるのでドアを閉めます。みんなそれに対して不平不満を漏らしたり犯人探しをしたりしていました。しかし幾人かのシスターは、開けっ放しにする人に対して怒りもせず黙って毎日トイレのドアを閉めている。このように小さなことだけれども、それによって修道院の平和に保っている。これこそ「暗いと不平を言うよりも進んで明かりをつけましょう」ではないでしょうか。今、世界で戦争や紛争、テロ、難民問題など平和とは反対にあるようなことが多くあります。そのような大きな問題に対しても、他の誰かが解決してくれる問題としてではなく今、他の誰でもない、私が行動しなければならない事として考えなければなりません。
「キリストによって実現された愛、つまり平和に生きる私たち」が、自分とその周りの小さな平和、あるいは世界の中で愛であり平和であるキリストを宣べ伝え、実行するためにはどうすればよいでしょうか?聖霊降臨までの残された時間の中で日々の祈りと奉仕、勉強を通して見つけてみましょう。

聖霊降臨 5日目 ジョナサン神学生

あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、思いやりの心、親切、へりくだり、優しさ、広い心を身にまといなさい。 互いに耐え忍び、誰かに不満があったとしても、互いに心から赦し合いなさい。主があなたがたを心から赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 これらすべてのことを上に愛をまといなさい。愛は完成さをもたらす帯です。 そして、キリストの平和にあなたがたの心を支配させなさい。あなたがたが一つの体に結ばれる者として招かれたのも、この平和のためなのです。そうして、感謝の人となりなさい。

コロサイ3章12−15節
テーマ:寛容

この聖書箇所にある、パウロのコロサイ人たちにあてた励ましの言葉は、キリスト者にとって、最高なお褒めの言葉のではないでしょうか。パウロは、コロサイの使徒たちを「神に選ばれたもの、聖なるもの、愛されているもの」という風に次から次へと褒めて、呼びました。私の心も、この言葉をとおして、誇りで満たされたような気がします。私はあのコロサイ人たちと同じように、キリスト者だからです。しかし、パウロは、この手紙を励ましとお褒めの言葉で止めなかったのです。すぐに、コロサイの人々に、そして、現代、この書簡を読んでいるキリスト者たちに、命令を出しました。「互いに耐え忍び、誰かに不満があったとしても、互いに心から赦し合いなさい」と。
このパウロの命令で、愛に満ち溢れる共同体を作るのはどんなに難しいことか、私たちにも分かると思います。たくさんの人が集まると、いくら同じ目的を持っているとしても、異文化や言語の壁や性格の相違などというチャレンジーが必ず出てくるでしょう。そして、あまり好きではない、受け入れがたい人に会える可能性が高くなるのではないかと思います。こういうことがあると分かっていたパウロは、私たちに対する神様の寛大さを思い出させてくださいます。神様は、私を心から赦してくださったので、私は兄弟を赦せないというわけにはいかないでしょう。もちろん、これは簡単なことだと言えないのですが、神様が私たちを先に赦してくださり、愛してくださったのを意識すると、分け隔てなく寛容の心を持って、皆を真に赦し、尊敬し、愛することはできなくはないことだと思います。
確かに、キリスト者であることはただの素敵な名前ではありません。私たちは本当のキリスト者として生きるために、キリストのように、神様のように、互いに赦し合い、愛し合わなければなりません。だが、もし私たちがこの掟に対して、失敗しても、神様は私たちをすでに神様の寛大さで赦してくださったでしょう。そして、寛容の心を持つまでに導いてくださるでしょう。だから、祈り続けましょう。

聖霊降臨ノヴェナ 3日目 荒田神学生

マタイによる福音6:1-6
テーマ「善意」
立願神学生 荒田啓示

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。 続きを読む

聖霊降臨 2日目 傍島神学生

聖書箇所:ルカによる福音10章21-24節
テーマ:「喜び」
立願神学生 傍島義雄

この「喜び」というテーマを選んだ後で、自分にはあまり似つかわしくないテーマを選んでしまったのではないかと感じました。というのも、生きる気力を失くしてしまうような抑鬱的な状態に陥ったり、憎しみの感情に襲われたりすることが、私には、しばしばあるからです。しかし、喜びに飢え渇いているからこそ、喜びを求めて、私たちは毎日聖堂に来て、黙想し、典礼に与り、賛美の歌を歌うのかもしれません。 続きを読む

復活徹夜祭の説教(品田神父)

復活徹夜祭

(2016年3月26日)
神学院大聖堂
品田神父

皆さん、主の御復活おめでとうございます。

今日読まれた福音書には、週の初めの日、朝早く婦人達がイエス様の墓を訪れた時の出来事が描かれています。「墓」はイエス様の亡きがらが埋葬されているところであり、イエス様亡き後、暗闇の中に生きる彼女達にとって愛するお方との思い出に浸れる場所だったのかもしれません。だから「墓」は婦人達が過去の思い出の中で、亡きイエス様と関わろうとしていることを表しています。彼女だけではなく弟子達も十字架上でイエス様が殺されて以来、自分達の思い出、心の痛み、悲しみを互いに分かち合っていたことでしょう。そして話せば話すほどに自分達の失敗と失った者の大きさに気がつき、どんどんと心の闇が深くなり、落ち込んでいってしまったのだと思います。イエス様への愛が大きければ大きいほど、弟子達の心の闇も深くなっていくのも理解できます。もしかしたら暗い墓に閉じ込められていたのは、イエス様ではなく、絶望的な気持ちを持って過去だけを見つめ続ける婦人達や弟子達の心であったのかもしれません。イエス様と一緒のとき彼らは、自信にあふれいつでも心を開いていました。しかしイエス様を失うことによって心が固く閉ざされてしまい闇の中に閉じ込められてしまっていたのでしょう。これでは過去におけるイエス様との出会いや素晴らしい思い出さえも呵責の念しか呼び起こさなくなってしまいます。

私達が生きている人生には、様々な時があります。すべてがうまくいき、生きていることが楽しくて仕方がない時。他の人のために働くことに喜びを感じ、軽い足取りで歩んでいける時。弟子達がイエス様と共に働いていた時は、このように感じていたと言えるでしょう。しかし、同じ人の人生でもまったく違った時もあります。生きていること自体が苦しくて、どのようにして乗り越えてよいかわからなくなる時、過去を思い出せば憂いを感じ、将来を考えれば心配と不安しか感じられない耐え難い時もあります。人生の暗闇です。これはイエス様を見失ってしまった後の弟子達や婦人達そのものです。私達の人生においても苦しみのあまりに、あたかもキリストを見失ってしまったかのように感じてしまう時もあります。

しかし、神様は、イエス様が埋葬されていた墓の石だけではなく、弟子達や婦人達の心を閉ざしていた大きな石も取り除き、十字架にかけられて死んだイエス様が復活されたことを知らせてくれました。同様に私達が辛い時、苦しい時、特に神様すら見失ってしまっている時に神様は、私達の心の石を取り除き、私達の傍らを共に歩んでくださる、よみがえられたキリストと出会わせてくださるのです。そして開かれた心を持って世界を見ると、どんなときでも神様が見守り支えてくださっていること、そしてあなたの周りにいて暖かく明るい光を送り続けてくれている優しい人達が見えてくるのです。

よみがえられたキリストと出会うことによって人間というものは、変わります。福音書に登場する人物は、婦人達も弟子達もイエス様のために命を失うことすら厭わなくなるほどの勇気を持つにいたりました。そうなるためには暗闇の体験が必要だったのです。暗闇が深ければ深いほど、その中で光はより一層、輝き始めるのです。イエス様の復活の光、愛の光によって暗闇を照らしてみたときに、人生の暗闇や苦しみは神様の光といつくしみが差し込むための入口であったことに気がつきます。どうか御復活されたキリストが光となって私達の心の中で輝きますように。そして私達も闇の中に生きている人達のための光となれますように祈りましょう。

聖木曜日・聖母崇敬式

聖木曜日
聖母崇敬式

神学院地下聖堂にて
2016年3月25日
アフリ・ディエトゲル助祭

「十字架のそばに母がいた」。「そば」という言葉を辞書で調べてみたところ、「傍ら」以外に「間を置かないことという意味」が出てきました。「間を置かない」とは、「親しむこと」と「共にいること」という意味として考えることもできます。全福音を見てみると、母マリアとイエスとの関係は、「親子として親しむこと」と「共にいること」にあります。マタイとルカは、母マリアは幼子イエスと一緒にいること、ルカは青年のイエスが過越祭の時に一緒に両親とエルサレムに旅したこと、ヨハネはカナでイエスの宣教活動において母マリアもそこにいたこと、などについて記しています。

母マリアは、幸せの時、あるいは楽しい時だけに留まらず、ユダヤ人にとって「神に呪われた者の死」の形としての十字架の下までイエスと一緒にいました。そこで母マリアの態度は切り離さない二つの面があります。一つ目、母としてのマリアはイエスを愛していること、二つ目は、イエスの中に神の御業があることを信じる方として、母マリアは神に対して忠実であることです。「愛すること」と「忠実である」ことは、現代の問題だけではなく、旧約の時代からずっと生じた一つの問題です。イスラエル人は、「主である神を信じる」と言ったにも関わらず、「神々との出会いによって」主である神の掟に逆らって、忠実ではなかったのです。現代の家庭・あるいは修道生活に直面している一つの問題も「愛と忠実」にあると思います。私たちがミサの中によく歌っているのは、「愛と忠実を互いに尽くし合い、よきときも、苦しみの時も結ばれる。高めあい、深め合いながら、結ばれる」。十字架のそばにいる母マリアは、「愛と忠実」という模範的なことを完全に実行しました。

イエス様の生涯が短いであって、母の忠実さと愛情を見たイエスが、世から去って行く前に、尊敬を持って、母と愛する弟子に「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です。見なさい、あなたの母です」と言われました。その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。家に引き取るとは、「歓迎する姿勢・あるいは受け入れる姿勢」として意味しています。また、家に引き取るとは、私たちの開かれている心であり、私たちの心の状態でもあります。家の中に生まれた子ども・あるいは家がないという理由で外で生まれた子供でも、歓迎する両親の心の状態が子供にとって一番大きな喜びです。歓迎する姿勢によって、両親は子供と一緒におられ、彼らの間に親しみ関係を築かれることができます。

イエスが生まれてから、母マリアは愛を持って、彼を歓迎し、彼の宣教活動を支え、その歓迎する姿勢はイエスの最後の生涯まで忠実でした。イエスは母の愛と忠実さを長く返すことができないのですが、死の前に自分の代わりに愛する弟子に母を自分の家に引き取るようにお願いしました。母マリアはイエスに対していつも歓迎する姿勢を持つことように、イエスの愛する弟子も母マリアを自分の母として家に引き取りました。

愛する弟子は母マリアを受け入れることのように、私たちも開かれている心を持って、日常生活の中で母マリアを受け入れるのか、あるいは彼女の模範にならうのかが、この聖母崇敬式を通して確認する機会となります。母マリアを受け入れるとすれば、母マリアが示してくださった愛と忠実をも受け入れるということになります。

 

聖金曜日の説教

聖金曜日

神学院大聖堂
2016年3月25日
暮林神父

過越しの祭りの日の明け方、人々はイエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行きましたが、自分では官邸に入りませんでした。汚れないで過ぎ越しの食事をするためであったとあります。割礼を受けていない者と接触することが、この日の食事を汚すと考えられたのでしょう。

人々は、神の愛を示すイエスのわざには心を閉ざし、神の子メシアを自称したかどで愛のない正論に基づいて、このイエスを、汚れ多き総督官邸に押し込め、除外し、消し、自分たちは清さを保って過ぎ越しの祭りを始め、いつもの子羊を食べることに落ち着こうとします。今まで通りの居心地の良い生活を続け、今まで通り罪びとや伝染病者たちを汚れをもたらすものとして避け、今まで通り愛も理解もない正論で娼婦や徴税人を断罪し、今まで通り食事の前に手を洗うことで清められたとし、今まで通り回心することなく、今まで通り嘆く人々に心から共感することなく、今まで通り愛することなく、いままで通りの子羊を食べて過越しを祝うのです。

今まさに、神の子羊がその血を流し、多くの人のあがないとして自分の命をささげるその瞬間が、自分たちの憎しみや嫉妬によって引き起こされるとはつゆ知らず。そして自分たちがいつも通りの子羊を食べている間に、神の子羊の命をいただき損なうことになっているとは思いもせず。

イエスはこのような権力者たちの愚かな衝動によって、つまらない裁判で断罪され、無残に十字架に架けられ、その命を削ります。不必要な孤独、嘲笑、苦痛、死です。けれどそれは、人類の歴史を通して、そして二千年経った今でも同じような不条理に苦しむ人たちに神がとことんまで寄り添い、神の子羊として命を与え続けることを示すために必要な孤独、嘲笑、苦痛、死でした。そして同様に、愛のない正論や愚かな衝動でわたしたちが人を傷つけていることに気付かせ、回心を促すために必要な孤独、嘲笑、苦痛、死でした。

今日、主は改めて、愚かにも人を傷つけるわたしたちや、あるいは不条理に苦しむわたしたち、わたしたちを取り巻く人々のためにその受難の姿をわたしたちに示します。ここに、永遠から永遠にいたる神の愛があります。裸の祭壇も、十字架上の裸のイエスも、すべてはぎ取られてなお、神の命が人を励ますため、支えるため、高めるためにこうこうと火をともし続けていることを、わたしたちに無言のうちに語ります。十字架上の、傷つけられ、唾で汚され、殴られ、罵倒され、呪われた、死にゆくイエス。そこにはピラトには答えを見いだせなかった真理があります。そこには自由があります。そこには平和があります。そこには神の力があります。そこには神の知恵があります。そこには、愛があります。

うちひしがれそうになっても、「見よ、キリストの十字架、世の救い」という呼びかけに答えて顔を上げ、キリストの十字架を見つめ、生かす神、生ける神の子羊の命をいただきましょう。わたしたちの愚かなこだわりを正すために主は苦しまれ、わたしたちを癒すために傷つけられ、わたしたちを清めるためにその血によってわたしたちが抱えている十字架を覆ってくださいます。

見よ、キリストの十字架、世の救い。共に、あがめ、たたえよう。

聖木曜日の説教

主の晩餐

神学院大聖堂
2016年3月24日
マリス神父

 皆さんに、イエスが弟子たちの足を洗う場面を想像していただきたいです。弟子たちの前にしゃがんで、ひざまずいて、弟子たち一人ひとりの足を洗うイエスの姿を想像していただきたいです。弟子たちの足を洗うのは師である、先生であるイエスです。しかし、同時に、弟子たちの足を洗うのは神の子イエスです。弟子たちの前にひざまずいているのは神ご自身です。罪人が神の前に、私たちが十字架の前で赦しをこいねがう前に、神は罪にまみれた人間の前にひざまずいているのです。やがて自分を知らないと否定するペトロの前に、自分を裏切るユダの前に、あなたの前に、私たちの前に神ご自身がひざまずいているのです。神の方が人間の前にひざまずいて、こいねがっているということです。「お願いだから、帰ってきてほしい」と、あの放蕩息子に対する父親の思いで、あるいは失われた羊を探し回って連れ戻す良い羊飼いの思いで、イエスは弟子たちの前にひざまずいて、彼らの足を洗ったということです。弟子たちの足を洗うイエスの姿は、慈しみにあふれる父なる神の姿そのものです。私たち一人ひとりに対する慈しみにあふれる神の思いそのものです。
その裏腹に、イエスと弟子達との最も親密な関係にあるこの最後の晩餐の場面に、そこにイエスを裏切るユダが繰り返し登場します。ユダは洗足の場面に三回繰り返し登場します。あたかも愛が充満しているるところに、悪の力がそれを対抗しようとする、正に今の世界の現状、そして私たちの心の中で日々繰り返し起こる善と悪の戦い(迷い)、忠実さと裏切り、愛と憎しみの戦いがあの最後の晩餐の部屋にも感じ取れるような気がします。しかし、その迷いの中でイエスが選ぶのは自分の意志ではなく、御父のみ旨です;憎しみではなく、許しです;苦しみから逃げることではなく、十字架の道を最後まで歩み続けることです。かけがえのない私たち一人ひとりを救うために;突き刺された脇腹から流れ出た水と血で、私たちの罪を洗い清めるためです。
イエスの弟子とは、キリスト者とは、神の恵みの大きさ、神の慈しみ深さに驚き、ペトロのように及ばずながらも、その思いに答えようとする人々です。
主に洗われたものとして、主に無条件に愛されたものとして、主にゆるされたものとして、主に生かされたものとして、私たちも主の模範にならい、主の思いに答えて、お互いへの憎しみと無関心、裏切りと利己心を捨てて、互いに足を洗い合う、弱さや足りなさを含めて互いに認め合う、互いに許し合う、互いのためにこれからも兄弟として日々生きていく決心を新たにしたいものです。そして、この世界に真の平和が訪れますように。

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