聖金曜日

聖金曜日・主の受難

聖金曜日・主の受難

昨日に続き、今日は聖なる三日間の二日目、「主の受難」が神学院の大聖堂にて、執り行われました。
今日、品田神父司式の元、神言会会員と信者の皆さんの数を合わせて、50名程参列しました。下記は、品田神父の説教です。

 

毎年、聖週間になると思い出す言葉があります。それは神学生だった頃、南アメリカのチリで一人の友人から言われた、「イエス様の人生は失敗だった。しかも大失敗だった」という言葉です。彼は、チリ人の神学生でした。スペイン語を習い始めた私は、最初の2・3ヶ月は、毎日新しいことを覚え、どんどんと会話もできるようになってきて有頂天になっていました。


ところが、だんだんと、他の神学生達や近所の子供達が日本語なまりのおかしな発音の私のスペイン語を真似して皆で笑っていることに気がつくようになりました。自分ではかなり正確に発音しているつもりでしたが、日本人にとって発音が難しい単語もあり、それが笑いの種になっていたのです。日が経つにつれ、自信も薄れてきて、だんだんと口から出るスペイン語の数も減り、人との会話が面倒くさくなってきました。そんな時に、その友人は「豊、失敗を恐れないでください。怖がって逃げていては前には進めません」と励ましてくれたのです。それでも落ち込み、ふさぎこみ、人々との会話をすることにますます尻込みする私に向かって「お前が完璧になろうとしているなら、それは大きな間違いです。誰でも失敗はします。イエス様の人生も失敗でした。しかも大失敗でした。にもかかわらず逃げませんでした。イエス様は、人を愛するという目前の目的のために決して逃げることはしませんでした」と彼は言ったのです。私は、彼のこの言葉を聞いてわが耳を疑いました。「イエス様の人生が大失敗だった」などと、それまで日本では教わったことも考えたことも無かったからです。

イエス様は神様がどれだけ一人一人を愛しているかを伝えるために、この世界に遣わされました。そのために、村々を巡り歩き、病人を癒し、泣いている人を慰め、絶望の淵に生きる人々に希望を与え続けました。心身に障害を持っているがゆえに、あるいは職業や、国籍の違いゆえに差別され、罪人と見做され社会から無視され、のけ者にされていた人達と食卓を共にしました。そうすることによって神様が、人を隔てることなく一人一人を愛しておられることを宣べ伝えたのです。言葉だけではなく実際に手を差し伸べ、時には抱きしめることによって、つまりイエス様は直接、毎日で会う人を愛することを通して神様の愛を伝えたのです。また他の人に生きる喜びと希望を与えるためなら、どんな悪口や批判にも屈しませんでした。このようにイエス様は、「神様は愛である」ことを、ご自身の生き方をとおして示してくださいました。イエス様の生き方を見ていくと、神様の愛と赦しを宣べ伝えるという使命を忠実に果たしていたことがわかります。人々はイエス様の言葉、まなざし、姿そして何よりも生きかたに、神様の愛を感じ取っていました。

しかしながら、その神様の愛の実践の結果として、権力者達から嫌われ、ねたまれ、あげくのはては、死刑囚として十字架にかけられて殺されました。その直前には愛する弟子達からも裏切られ、見捨てられて全く孤独のうちに捕らえられました。かつてイエス様から病を癒され、その言葉を喜んで聞いていた人々は「殺せ、十字架に架けろ」と叫びもしました。人々は十字架上で悶え苦しんでいるイエス様を見て、冷やかにあざ笑っていました。そして最後に「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫び亡くなっていったのです。これはイエス様が、神様にさえも見捨てられた者として絶望のうちに死んでいったことを意味します。

人生の価値を、結果や何を成し遂げたかで決めてしまう、私達の常識から判断すると、イエス様の惨めで、ぶざまな最期は、彼のたどってきた人生が大失敗であったことを示しています。なぜならイエス様の受難と十字架上での死は、イエス様の毎日の生き方の結果としてもたらされたからです。

もしイエス様の人生が、痛み、苦しみ、絶望の象徴である十字架上での死で完結していたら、それは失敗以外の何物でもないでしょう。しかし十字架上での死は新しい命への道を開きました。ペトロが使徒言行録で言っているとおり「人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。」イエス様は復活され、誰もが怖れる「死」に打ち勝ち、永遠の生命に入られたのです。イエス様の十字架上での死を復活の光で照らしてみますと、絶望の象徴である十字架が希望の光に変わり、輝き始めるのです。それだけではなくイエス様が体験なさった全ての痛みや苦しみは、決して失敗などではなく、復活を通して永遠の生命に辿り着くために避けては通られない道だったことが理解できるのです。十字架は、絶望から希望への、憎しみから愛への、悲しみから喜びへ向うための道標なのです。十字架を通らなければ復活も無いのです。

私達が生きていく過程で、痛みや苦しみ、失敗や過ちは避けて通ることができません。にもかかわらず私達は、それらのものを悪いことである決めつけ、苦しんでいる自分を駄目な人間であると決めつけ、自信を失い、臆病になり、失敗することを怖れて、何も手を出せなくなってしまうこともあります。しかし、復活されたキリストは、私達が困難や苦しみのさなかにあるとき、道標であるイエス様の十字架を見つめ、苦しみの向こうにある復活の光を目指して歩くこと。受け入れがたきを受け入れ、耐えがたきを耐え、歩き続けるならば、必ず光が見えてくることを教えてくださるのです。苦しみに泣き叫びながらも、失敗に怯えながらも、嫌々ながらでも自分の十字架を背負って歩いている人と共にイエス様は同伴者として、いつも歩んでいるのです。だから「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言されたのです。神様は、一人一人の人生の十字架をイエス様と共に背負っている人が復活の栄光も分かち合うことを約束されています。

私達の弱さも、失敗も、過去の消し去ることができない過ちも全てイエス様と出会うために欠かせないものなのです。そういうわけで神様から見れば、私達の人生における、どんなに些細な出来事であっても無駄なことは、一つも無いのです。たとえ他の人の目からみたら失敗であり、あるいは汚らわしいと思えるようなことであっても神様にとっては深い意味があるのです。

神様は、十字架上でのイエス様の徹底的な弱さ、そして他の人から見れば大失敗と見える出来事の中に大きな恵みをお与えになり人類に希望を与えられました。

神様の最愛の子でありながら一人一人を愛するがゆえに弱く、無力になり十字架の苦しみや絶望に耐え、死に打ち勝たれたイエス様が、いつも共にいてくださり、私たちが弱さや失敗から目をそむけることなく、それらをあるがままに受け入れ、日々の十字架を担っていくことができますように祈りましょう。

2015年4月4日
聖金曜日-主の受難
神言神学院大聖堂にて
品田 豊