聖木曜日・聖母崇敬式

聖木曜日
聖母崇敬式

神学院地下聖堂にて
2016年3月25日
アフリ・ディエトゲル助祭

「十字架のそばに母がいた」。「そば」という言葉を辞書で調べてみたところ、「傍ら」以外に「間を置かないことという意味」が出てきました。「間を置かない」とは、「親しむこと」と「共にいること」という意味として考えることもできます。全福音を見てみると、母マリアとイエスとの関係は、「親子として親しむこと」と「共にいること」にあります。マタイとルカは、母マリアは幼子イエスと一緒にいること、ルカは青年のイエスが過越祭の時に一緒に両親とエルサレムに旅したこと、ヨハネはカナでイエスの宣教活動において母マリアもそこにいたこと、などについて記しています。

母マリアは、幸せの時、あるいは楽しい時だけに留まらず、ユダヤ人にとって「神に呪われた者の死」の形としての十字架の下までイエスと一緒にいました。そこで母マリアの態度は切り離さない二つの面があります。一つ目、母としてのマリアはイエスを愛していること、二つ目は、イエスの中に神の御業があることを信じる方として、母マリアは神に対して忠実であることです。「愛すること」と「忠実である」ことは、現代の問題だけではなく、旧約の時代からずっと生じた一つの問題です。イスラエル人は、「主である神を信じる」と言ったにも関わらず、「神々との出会いによって」主である神の掟に逆らって、忠実ではなかったのです。現代の家庭・あるいは修道生活に直面している一つの問題も「愛と忠実」にあると思います。私たちがミサの中によく歌っているのは、「愛と忠実を互いに尽くし合い、よきときも、苦しみの時も結ばれる。高めあい、深め合いながら、結ばれる」。十字架のそばにいる母マリアは、「愛と忠実」という模範的なことを完全に実行しました。

イエス様の生涯が短いであって、母の忠実さと愛情を見たイエスが、世から去って行く前に、尊敬を持って、母と愛する弟子に「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です。見なさい、あなたの母です」と言われました。その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。家に引き取るとは、「歓迎する姿勢・あるいは受け入れる姿勢」として意味しています。また、家に引き取るとは、私たちの開かれている心であり、私たちの心の状態でもあります。家の中に生まれた子ども・あるいは家がないという理由で外で生まれた子供でも、歓迎する両親の心の状態が子供にとって一番大きな喜びです。歓迎する姿勢によって、両親は子供と一緒におられ、彼らの間に親しみ関係を築かれることができます。

イエスが生まれてから、母マリアは愛を持って、彼を歓迎し、彼の宣教活動を支え、その歓迎する姿勢はイエスの最後の生涯まで忠実でした。イエスは母の愛と忠実さを長く返すことができないのですが、死の前に自分の代わりに愛する弟子に母を自分の家に引き取るようにお願いしました。母マリアはイエスに対していつも歓迎する姿勢を持つことように、イエスの愛する弟子も母マリアを自分の母として家に引き取りました。

愛する弟子は母マリアを受け入れることのように、私たちも開かれている心を持って、日常生活の中で母マリアを受け入れるのか、あるいは彼女の模範にならうのかが、この聖母崇敬式を通して確認する機会となります。母マリアを受け入れるとすれば、母マリアが示してくださった愛と忠実をも受け入れるということになります。