聖木曜日の説教

主の晩餐

神学院大聖堂
2016年3月24日
マリス神父

 皆さんに、イエスが弟子たちの足を洗う場面を想像していただきたいです。弟子たちの前にしゃがんで、ひざまずいて、弟子たち一人ひとりの足を洗うイエスの姿を想像していただきたいです。弟子たちの足を洗うのは師である、先生であるイエスです。しかし、同時に、弟子たちの足を洗うのは神の子イエスです。弟子たちの前にひざまずいているのは神ご自身です。罪人が神の前に、私たちが十字架の前で赦しをこいねがう前に、神は罪にまみれた人間の前にひざまずいているのです。やがて自分を知らないと否定するペトロの前に、自分を裏切るユダの前に、あなたの前に、私たちの前に神ご自身がひざまずいているのです。神の方が人間の前にひざまずいて、こいねがっているということです。「お願いだから、帰ってきてほしい」と、あの放蕩息子に対する父親の思いで、あるいは失われた羊を探し回って連れ戻す良い羊飼いの思いで、イエスは弟子たちの前にひざまずいて、彼らの足を洗ったということです。弟子たちの足を洗うイエスの姿は、慈しみにあふれる父なる神の姿そのものです。私たち一人ひとりに対する慈しみにあふれる神の思いそのものです。
その裏腹に、イエスと弟子達との最も親密な関係にあるこの最後の晩餐の場面に、そこにイエスを裏切るユダが繰り返し登場します。ユダは洗足の場面に三回繰り返し登場します。あたかも愛が充満しているるところに、悪の力がそれを対抗しようとする、正に今の世界の現状、そして私たちの心の中で日々繰り返し起こる善と悪の戦い(迷い)、忠実さと裏切り、愛と憎しみの戦いがあの最後の晩餐の部屋にも感じ取れるような気がします。しかし、その迷いの中でイエスが選ぶのは自分の意志ではなく、御父のみ旨です;憎しみではなく、許しです;苦しみから逃げることではなく、十字架の道を最後まで歩み続けることです。かけがえのない私たち一人ひとりを救うために;突き刺された脇腹から流れ出た水と血で、私たちの罪を洗い清めるためです。
イエスの弟子とは、キリスト者とは、神の恵みの大きさ、神の慈しみ深さに驚き、ペトロのように及ばずながらも、その思いに答えようとする人々です。
主に洗われたものとして、主に無条件に愛されたものとして、主にゆるされたものとして、主に生かされたものとして、私たちも主の模範にならい、主の思いに答えて、お互いへの憎しみと無関心、裏切りと利己心を捨てて、互いに足を洗い合う、弱さや足りなさを含めて互いに認め合う、互いに許し合う、互いのためにこれからも兄弟として日々生きていく決心を新たにしたいものです。そして、この世界に真の平和が訪れますように。

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