聖なる三日間の初日(聖木・主の晩餐夕べのミサ)

洗足式

洗足式

本日、神学院大聖堂にて執り行われました。
洗足式では、4名の神学生がマリス神学院院長によって洗足されました。また、今日の式では、普段からお世話になっている30名位の信者の皆さんが参加しました。
主の受難・死・復活の神秘に心から参加できるように、引き続き共に祈りましょう!

 

下記には、マリス院長の説教があります。ご覧ください。

 

主の晩餐の夕べのミサ

とある田舎の教会での聖木曜日の洗足式の時に、主任司祭は参列した信者の中から適当に子供から老人まで12人を選んで、彼らの足を洗いました。順番に一人一人の足を洗って、最後人の番が来ました。普段教会にあまり来ていない一人の老人でした。司祭がしゃがんで老人の足を洗おうとする時に、彼は自分の足を引いて、手を差し出しました。足ではなくて、手を洗うように合図しました。素朴な老人は、普段も裸足で生活し、その日も3キロ離れた村から裸足で歩いてきました。自分の汚い足を主任司祭が洗うのはどうしても抵抗があったようです。ミサ中で、皆が見ている前で老人を説得する時間がなかったこの神父は老人の手を洗いました。
最後の晩餐でイエスが洗ったのは弟子達の足です。手や頭、体の他の部分ではなく、足です。いつも地に着いた足です。赤土でホコリが立ちやすいパレスチナには、なおさらのことです。その関係で、当時のオリエント社会と同様に、旅をした人や宴会につく前に客の足を洗う習慣があったのです。とは言え、足洗は奴隷がやることです。弟子たちにとって、師であるイエスが自分たちの足を洗うことは異例なことで、それに抵抗があって当然です。「先生が私の足を洗うなんて、とんでもないことです」とペトロは強く反発しました。しかも、その時にペトロが使っている表現は、モノゴトを否定する時の最も強い表現、神に誓う時にも用いられる表現です。「神に誓って、何があっても、永遠に、絶対にあなたが私の足を洗うことはない」というニュアンスでペトロは自分の足がイエスに洗われるのを否定しました。しかし、イエスはペトロを説得しました。「私があなたの足を洗わないなら、私とあなたとは何のかかわりもないことになる」。正確には、「私があなたの足を洗わないなら、あなたは私から何の遺産も受け継がないことになる」。イエスが言う「遺産」とは永遠の命です、十字架上で示されたイエスの愛です、ゆるしです。「愛、赦し、永遠の命」それが本当の遺産です。ペトロがイエスから受け継いだ遺産、それはペトロが自分の弱さから立ち上がるために不可欠なイエスの愛です、ゆるしです。
そうです。人間は愛されることで愛を学び、ゆるされることで人を赦すことを学び、成長していくのです。残念なことに、私たち人間の互いへの愛とゆるしはいつも限界があります。私たちがお互いに自分の最も汚い部分を人に触れてほしくない、人に知られたくないのです。それは、愛を失うこと、赦してもらえないのが怖いからです。自分の汚い部分をさらけ出せるのは、無条件に受け入れてくれる、無条件に愛してくれる人にしかできません。それが出来た時、人はどれだけ自由になれるか、私たちはそれぞれ経験したことはあるかと思います。私の最も汚い自分を無条件に受け入れてくれる人だけが本当の意味で私の足を洗う人です。この後の洗足式で数名の神学生の足を洗いますが、本当の意味で一人一人の足を洗うのは私にとっての日々の戦いです。皆さんもきっと同じではないかと思います。本当の意味でホコリにまみれた弟子たちや私たち一人一人の足を洗うのは主だけです。主は清くならないユダの足でさえ洗ってくださったのです。パン切れを受けてから、背中を向けて暗闇の中に出ていったユダの足でさえ主は洗ってくださったのです。
主に洗われたものとして、主に無条件に愛されたものとして、主にゆるされたものとして、主に生かされたものとして、私たちも主の模範にならい、互いに足を洗い合う、弱さや足りなさを含めて互いに認め合う、互いに許し合う、互いのためにこれからも日々生きていく決心を新たにしたいものです。

神言神学院大聖堂にて
2015年4月2日
神言神学院院長マリス神父